三遊亭円楽「一文笛」

当ブログは「笑点」にも結構筆を割いている。
落語好きとして、笑点への立ち向かいかたは常に微妙ではある。おもねらず、敵対せずという。
ただ、「笑点メンバーは落語はみなヘタクソだ」という意見には与しない。大喜利から感じる、噺家ならではの話術というものだってある。
落語好きだからこそ、大喜利だけずっと見ているファンにはわからない話芸の妙もわかるのだ。
笑点の公開収録への応募も、実は密かにしている。倍率20倍と聞くので、20回応募すれば当たるんじゃなかろうか。
ハガキで出すと当たりやすいというが、そこまではしない。当たったらレポしますよ。

私は、(三平以外の)笑点メンバーにも好意を持っている。タレントとしての好意は持っているが、噺家としてはそれほど・・・というメンバーもいるけど。
その中でいうと、三遊亭円楽師匠について抱く好意は、決して上のほうではない。
純朴な地方の客からは、世相に敏なインテリだと思われている師匠だが、別にインテリでもない。
まあ、それは笑点を進行するのに必要な「やかんの先生」キャラだから別にいいのだけど、しばしばキャラが行き過ぎて、落語界のトップに君臨しているような態度を見せるのだけはどうも。
この態度、確かに笑点を認めない落語ファンには嫌がられるだろう。
円楽師、落語界の頂点に君臨している立ち位置でもって、人をディスるからいけない。これはネタには違いないが、でも、あんたなんぼのもんだよと言われてしまうのがオチではないか。
そもそも、偉そうな噺家自体非常に少ないからなあ。談春、志らく、談四楼、春蝶というところ。円楽師、こういう人たちの仲間でいいのか。
笑点でやってる定番の好楽ディスりも罪深いなあと思う。ネタ自体に文句言う気などないし、好楽師だってあのネタでかなり恩恵を受けている。だけど、ああいった上目線のネタで結局、自分が一番落語が上手いのだという設定を勝手にこしらえてしまっている。
勝手にこしらえた設定は脆い。

そんな円楽師、本業に対して非常に真面目な人なのは確かだ。
笑点から落語に入るには、わりとわかりやすい師匠ではないかという気もする。そうやって落語聴くようになった人もたくさんいるのでは?
博多・天神落語まつりなどプロデュース業も立派に務めているし、ちゃんと落語界に貢献はしているのだ。
弟子が結構育っているのもいい。円楽師の息子の一太郎は噺家休業状態のようだが、よその業界で活躍しているのなら文句をいう筋合いもない。
円楽党をよく聴くようになり、かつて抱いていた、円楽師の弟子が育っていないイメージは間違いだったと気づき、私は大いに反省している。
ちなみに、弟子育成の実績を序列でいうと、「木久扇→好楽→昇太→円楽→小遊三→歌丸」だ。笑点メンバーは、落語界全体と比較しても、弟子育成の力が実はすごいのであった。売れてる姿を見せるのがいいみたいだ。

円楽師、本業の世界では落語芸術協会の客員になり、寄席の世界でも少しずつながら活躍中である。円楽党も辞めておらず、両国や亀戸にも今なお顔付けされている。
そして、結構最近TVでお見かけする。NHKへの出演はもともと多いけど、千葉テレビの「浅草お茶の間寄席」にも出ていた。
でもこの師匠、TVで毎回聴いて感じるのが、滑稽噺のなんともいえない物足りなさ。
軽さが足りないのだろうか?
小遊三師のふざけた味、好楽師のとぼけた味、昇太師の躁病など、個性的な落語の味がどうも感じ取れない。
でも、人情噺ならどうだろう。

***

落語界の未来のために懸命に働いている円楽師、決して嫌いたくはない。円楽党も愛している。
この師匠、以前から人情噺は悪くないのではないかと思っていた。「藪入り」とか。
先月の放送だが、NHK日本の話芸で「一文笛」が掛かっていた。
これについて、よいところも悪いところも取り上げてみたい。

一文笛は、桂米朝作の新作落語である。
米朝は新作落語を数多く掛けた人ではないが、この一文笛は、(自作ではないが)「まめだ」とともに、今でも人気のある演目。
東京でもやっている人が多い。

マクラはこの噺を教わった経緯。
米朝が晩年で非常に弱ってしまい、直接は教われない。困っていたら、ざこば師が稽古を付けてくれた。
乱暴なざこば師のモノマネが非常に面白い。
その後大阪に立ち寄った際、ざこば師に教わったことを米朝に挨拶に行った。ちなみに円楽師、さりげなく「おおざか」と発音していた。
だいぶ弱っていた米朝師と、会話が成り立たない。円楽でございますと挨拶すると、「円楽はんはもう少おし顔の長いお人や」。
ざこば師に一文笛教わりましたと声を掛けると「一文笛、あれはええ噺やなあ。わしもいっぺんやってみたかった」。
なんだかなあ。落語界の巨人米朝について、晩年衰えたとはいえギャグにするのはなあ。米朝一門の誰も怒らないだろうけども、なんだかせつなくなる。
こういうところが、良くも悪くも当代円楽師だよなあと思う。
タブーに切り込むというほどでもなく、単に敬意が薄く感じられてしまう。
円楽師は若い頃からマウンティングが癖になっているのではないかな。談志だったらそんな態度も許されたろうが。
柳家喬太郎師など見ていれば、単に謙虚なだけではなく師の内部から、相手に対する敬意が溢れ出してくる様子が、画面のこちらからでもわかるではないですか。

本編が短いので、ここから改めて泥棒マクラに進む。
円楽師らしい、泥棒と強盗の法律上の評価について。
続いて、古典落語で使うコソ泥のマクラに入る。枠が15分だったら、もっといい構成になってるんだろうな。
マクラというか、要は「出来心」だが。「このあたりに椎名巌さんはいらっしゃいますか」と、留守宅を探して歩く泥棒。
椎名巌は歌丸師匠の本名である。東京落語会の客は笑点ギャグにはあまりなじみがないらしく、笑わない。
もうひとつ、表札を読んでから入る間抜け泥棒は、「天野幸夫さんはいらっしゃいますか」。こちらは小遊三師の本名だ。

円楽師のマイナス面だが、言葉がなんだか不自然だ。
歯切れいい江戸弁を使おうとして、なんだか果たせていない。あるいは、笑点で使っているのが日常の言葉なので、聴き手が勝手に違和感を生じるのかもしれないけど。
小遊三師なんて、言葉遣いも含め、笑点と本業との間にまったくギャップがなくて、あれはすごいと思う。好楽師もあまり断絶はない。
江戸弁が身についていないから噺家としてダメだと言いたいのではない。もっと普通の、日常使っている言葉で演じても、それが似合う人なら全然よさそうに思うのだけどなあ。
円楽党の王楽師など、一文笛が好きなようだが、わりと日常的な言葉遣いだ。いい悪いはともかく、そんなスタイルだって成り立つと思う。

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出来心の一部を使ったマクラから、コソ泥より上級の盗人、スリの話へ。
一流のスリは紙入れから中身だけ抜いて、領収書を入れて戻しておいたと。これは、米朝も語っていたこの噺専属のマクラ。

スリの達人が、狙った煙草入れを奪うため、持ち主に声を掛け、実は自分はスリだと白状するシーンから。
一文笛という噺、人情噺の前段であるこのエピソードを冒頭に置く構成が巧みである。
スリ仲間に金を払い、煙草入れをスる権利を譲ってもらったのだという。だが、持ち主にスキがなくて奪えない。
そこで本人に声を掛け、譲ってもらうことにした。元は取れないが、スリの意地だというので。
スキがないとおだてられた本人、いい気になって煙草入れを言い値で売るが、その金をスられてしまう。

円楽師、煙草入れの持ち主の旦那になって湯のみの茶をすする。
これは大師匠の圓生が上手かったとされている。登場人物が茶をすするシーンとシンクロしているのである。その線を狙っているのだろうか。
円楽師、案外とこの所作が上手い。70近いわりには風格は物足りない気がするけど、ちゃんと絵になっている。

念の入った仕事を、仲間の前で自慢するスリ。
江戸から明治になった東京の雰囲気がよく出ている気がする。
ただ、昨日も書いたけど、言葉遣いがなんだか中途半端な気はしてならぬ。

いっぽうで、円楽師は人情噺が上手いという私の持っているイメージは、ますます強固になってきた。
「泣かせるのが上手い」ということではない。上手いけども、そこに着目し過ぎるといけない。
先代圓楽は、客を泣かせる前に自分で泣いてしまっていたというので、今でも歌之介師あたりに揶揄されている。そういうことではなくて人情噺の上手さとは、笑いのないシーンを堂々と乗り切る力だと思う。
スリの、足を洗ったアニイが出てきてからは、一切笑いがない。
別に、最初から緊迫しているシーンではない。スリ本人のほうは、最初からアニイが深刻な話をしにやってきたとは思っていないのだから。

スリ本人が余計な義侠心を出し、一文笛を盗んで子供に与えたがゆえに起きる悲劇。
悲劇が明らかになると、本当に緊迫してくる。笑いのないシーンを堂々と乗り切ったゆえに、人情噺がスムーズに客に伝わってくる。
客席の(いい意味での)緊張が画面からも感じられる。
すでに、笑点の紫色の姿はそこにはない。
TVをぼんやり視ていると、取り逃してしまう。だが、生の落語を日ごろ聴いている人なら大丈夫だ。ちゃんと画面の向こうに入ることができる。

物語がいよいよ緊迫してくる中で、円楽師は唐突に、あっさりサゲる。
これは意図的に、あっさりとサゲているのだと思う。
劇的にやろうとすると、たぶんコケてモヤモヤが残るのだ。

作成者: でっち定吉

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