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壺算の道具屋から、家見舞へつながる。
芸協では「肥甕」の演題が一般的な気がするが、鯉昇師はCDでも家見舞としている。
鯉昇師の落語の登場人物は、とびきりユニーク。
家見舞のふたりもまた、黄金のパターンを踏襲している。
兄貴分のほうが小ボケ、弟分が大ボケ。ツッコミはいない。
ちなみに、道具屋の親父もきちんとツッコまないし、アニイもまったくツッコまない。
間違った言動の人間に対し、きちんとツッコむ人間は誰もいないのである。
そんな落語成り立つのか? 現にここにある。
客がしっかりツッコむ必要がある? そうでもない。
楽しく間違った人たちの会話を、楽しく聴いていればそれでいい。
私も鯉昇師のCDで家見舞を聴いているが、同じ噺とは思えないぐらい膨らんでいて、心底驚いた。
私はそもそも家見舞という噺が好きじゃないのである。ばっちい噺だからではなく、世話になってるアニイにひどいことをして平気なのがわからないのだ。
当ブログでも、繰り返しこのことに言及している。
よかったのは、「後で必ず甕を取り換える」という決意が明確で、丁寧な三笑亭夢丸師のもの。
鯉昇師の家見舞だって、別段そんなに好きだったわけでもない。
だが、私の気になる部分はかけらも存在しなかった。進化を止めない、素晴らしい噺家だ。
世話になった人を「ひどい目」に遭わせる描写があるからいけないのだ。ここをぼやかしてしまえばいい。
とはいえ。アニイの部屋に上がり込んで、ごちそうしてもらうがすべて甕の水を使っているというのが本来の噺のハイライト。そこをぼやかせる?
でも、本当にこんなワザを駆使する鯉昇師。アニイを詳しく描写しないことで。
とんとーんと、「ほら水だ、一杯飲みな」まで進んでいくので、聴き手の脳に不快感が浮かぶ暇がないのである。
マクラを含め40分以上あった。
サゲ付近を軽快にして乗り切るということは、前半がたっぷりあったということ。
本当にたっぷり。
他の噺家がこれぐらいのたっぷりサイズで演じていたら、うんざりするかも。
「ずいぶんたっぷりだな」という感想はしっかり持ちつつ、実に楽しく聴かせていただいた。奇跡のような一席だ。
鯉昇師の語り自体に力が、魂がみなぎっているからである。ストーリーなんか全然ないのに!
大ボケ・小ボケのふたりだけ、アニイの引越し見舞いに取り残されてしまった。
このふたりが、ああでもないこうでもないと相談している。
弟分は26銭しかない。あそこを歩く小学生だって、5円から10円は持ってるぞ。よく出てこれたなという兄貴分だが、こいつも24銭しか持っていない。併せて50銭。
なじみの道具屋に行ってみるが、どんなに安い商品でも、6円はする。唯一、長針が行方不明の時計だったら買えなくはない。
道具屋の親父も適当な人で、相変わらずツッコミ不在のトリオ漫才が始まる。
瀬戸物屋に行ってから道具屋に廻るというストーリー展開なら、時間は掛かる。今はまどろっこしいから、少ない。
鯉昇師は、道具屋だけなのに中身の詰まったたっぷりサイズ。
値切り方(手を開くが、指をすぼめて、50銭を表現する)などが、その中身。
ギャグのメリハリはくっきりしている。先人が使っていたクスグリでも、不要なら大胆にカット。
雪隠甕なのがわからない二人に、親父はいつまでも説明をしない。
それから、天秤棒にかついで運ぶあたりも、あっさり。でもちゃんと、川で洗っていくシーンは入れる。
このメリハリのすばらしさ、新作落語に近いものである。古典落語しかしない鯉昇師だが、柳昇マインドがしっかり引き継がれている。
「値段を言うときに『円』から始めるシステムはやめてくれ」だって。たった一か所、明治時代にない言葉を使って客をくつろがせるが、調子に乗って多用したりはしない。
のんびりした語りの鯉昇師なのに、会話はとてもテンポがいい。
仲入り後の「へっつい幽霊」もそうだったのだが、食い気味に会話がつながっていく。
長講で飽きない秘訣は、このあたりだろう。
私は寄席を愛する人間だが、鯉昇師に関していうと長講のほうがいい。滑稽噺なのに。
そして、鯉昇師は疲れない。
ずっとクスクスさせてもらっているからだ。ぬるま湯の温泉から、出られない。でものぼせない。
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