「国策落語」の扱いに違和感

寄席や落語会の続き物を終えると、ネタを探さなくてはならない。
そして当ブログ、だいたいそちらのほうが人気である。小遊三の会の前に出した弟子もの三連発もアクセスが多かった。
寄席の記事もお願いしますよ。
今月はこのあと池袋下席、柳家小せん師を聴きにいきたいと思っている。

さて、国策落語に関する記事をたまたま見つけた。

戦時中の「国策落語」 少なくとも14の演目が放送 – NHK.JP(リンク切れ)

戦時中は、落語すら国の施策に協力を余儀なくされる暗い暗い時代だった。
寄席には憲兵がいて、政府を揶揄する噺家は連れていかれた。
古典落語の多くが「はなし塚」に葬られた。
こんな悲劇を、我々は二度と起こしてはなりません。

てなことをよく言う。史実には違いない。
だが、いつも違和感を覚えてならない。今回もまた。
私個人が、戦時中にタイムスリップしたいかという質問を受けたら、それは嫌に決まっている。慣れない時代にタイムスリップしたら、誰でもそうだろう。
だが、過去の時代にリアルに生きていた人の感性に対し、そのようなものの見方を採っていいのか?

現代はまともであり、過去は野蛮人の跋扈した、劣った時代。
まあ、太平洋戦争への突入と敗戦処理に関しては私もそう思う。戦争と関係なく、現代社会が徐々に進歩していっていることも感じるし、ここでそう書いてもいる。
だが、過去を断罪できるのは、後付けでもって、安全圏から論評できるからこそだ。そのズルさに関する自覚ぐらいは持っている。
戦時中に「日本が戦争に勝てますように」と願い、国策落語を聴いていた人たちのリアルな思いに迫る人はなかなかいない。
リアルな思いを戦後恥じ、価値観の劇的転換を体験した人の思いには迫れても。それは真のリアルとは違うものなのだ。
現代人の尺度のみで過去を断罪しても、なにも得られない。
日ごろからマウンティングしたがる人は、得てして過去にもマウントを取りたがる。そんな気がしてならない。
反ワクチン派の連中だって、未来から見た視点を勝手に盛り込むのであり、構造は似ているのだ。現在のワクチン政策は間違っていて、数年後にみんな死ぬのだと、未来人視点からマウンティングでものを言う。
こんなフィクションに比べ、過去は一応決着していて、マウントを取りやすい。

戦時中に国策落語を作って出した噺家が、イヤイヤそうしたのだとは、私はちっとも思わない。
時代の空気がそうだったとしか言えないように思うのだが。現代人の空気に基づき、同情したり断罪したりするのは実に勝手な話。
だいたい「民間人にお上が強制し落語を作らせる」、こんなイメージを持っていたとしたら間違いに違いない。
これは創作というものに関する、本質的なルールである。強制労働が可能でも、「アイディアを出せ」を強制できた時代はない。

記事に名前の出ていた柏木新氏が、こちらにも寄稿している(登録して無料で読める)。

戦時下の悲しき国策落語 埋もれた事実の発掘に奔走

国策落語を聴いた人に感想を聞くと、「心に残らない、つまらない落語だった」と口を揃えたという。
これにもまた、違和感を覚えてならない。
そもそも新作落語を世に出したときに、そうそうウケるとは限らない。そのことがまずある。
創作者、みんながみんな三遊亭圓朝ではないのだ。
そして、当時の客が「なんだ国策落語か。誰がそんなもの好んで聴くんだ」と判断していたかのような錯覚を、勝手に受け止める読み手もいると思う。
そんな、未来の空気を持ってリアルに生きていた人などいたはずがない。
単純に、「この新作はデキが悪い」と思った人は、たぶんいただろう。それは現在の落語ファンにでも、想像がつくこと。
そして、戦後のバイアスが感想に影響を与えている。

明白な事実はただひとつ。
単に国策落語と銘打った一連の新作落語のシリーズが、失敗に終わったようだということ。
この事実以外、どんな切り取り方をしてもバイアスが掛かっている。
「国が文化をいじろうとしてもムダだ」という結論も、乱暴に過ぎる。
当時の反省が、現代のコロナ禍における寄席の抵抗を生んだのだとか、そんな決めつけも乱暴。
令和の時代の我々にできることは、過去についてじっくり観察して、当時のリアルな思いを想像する、ただそれだけではないのか。個人の感想として、イヤな時代だなと感じるのはその人の自由だが。

当代林家三平が、祖父七代目正蔵の作った「出征祝」を演じている噺はよく聞く。
これは平和への祈りのためにやっているのだという。海老名家らしい。
だけど、面白くないことを前提にしてやっているようだ。
演者は三平だけど、国策落語だからウケなくて当然だというのなら、ちょっとズルい。

現代の新作落語家がイデオロギーにとらわれず、面白く作り替える自信があるなら、国策落語もやってみて欲しいものだ。
でもどう頑張ってもつまらない落語ならば、資料で止めておいて欲しい。魂のない落語を掛けられても。
あるいは「国策落語の創作」をネタにした新作落語を作るか。
そもそも1回演じてお蔵入りの落語なんてたくさんあるわけだ。たまたま国策落語だからといって蘇らせるのも、なんだか違うなとも思う。

作成者: でっち定吉

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