先週「小遊三の会」に出向き、次に予定している池袋演芸場までのつなぎに毎日いろいろ書いている。アップする時間がバラバラですが。
別個に書いたものが、くっついたという話である。
昨日は喬太郎師のPR落語について書いた。この健保寄席はYou Tubeで聴けるので、未聴の方はぜひ。
あくまでもPRのための新作落語であって、せっかく視たのに「つまらないぞ」と感じる人の存在も、私の想像の外にはない。
でも、喬太郎師の落語を考えるうえで、私にはとても楽しく刺激になった。PRのために落語を委嘱するとは、どういうことかまで含め。
そういえばツイッター探しても見つからないのだけど、春風亭一之輔師のところに、PRのための新作講談の依頼があったという話がある。
相手が噺家だか講談師かもわからず依頼する。PRなんて、その程度のものだってあるわけで。
ともかく、健保寄席の記事を書いたあとで、あれと思った。
先に書いた、「国策落語」とつながった気がしたのだ。
国策落語も、結局は戦時下における、軍部がスポンサーのPR落語に過ぎなかったのではないだろうか。
そう考えると、頑張って作ったとして、大して面白くなかった、その結果もうなずける。
といってつまらなかったのは、戦意高揚がテーマだからではない。ただPRにおけるウデが足りなかったから。
別に七代目正蔵など、国策落語の作者が二流だったと言いたいのではない。でも超一流ではなかったようだなと。
超一流であれば、ちゃんと自然な笑いどころを作れたことだろう。喬太郎師のように。
もちろん、戦時下では寄席では憲兵が高座を見張っていて、自由な高座が制限されていたのも、事実としてある。はなし塚に埋められた禁演落語もあり。
そんな史実から、後世の人間は、統一された軍の意向を勝手に読み込んでしまう。
だが実際は、ひとつずつの事実はバラバラなのでは。
我々は、大戦における軍部の統治がそもそもうまく行っていなかったことを知っている。だからこそ、敗色濃厚の戦争をやめられなかったわけで。
国策落語なんて、ただの掛け捨てのPR落語だと考えると、また別のものが見えてくる。
歴史に残らなかった(ために研究しようとすると資料が散逸している)のも、当然なのではないか。
「戦争とは、芸能が抑圧される時代のことだ」ととらえるのは、芸術的感性としては自然なことである。
だが、事実はもっとずっと単純なのではないかな。戦争があった。国策落語もあった。それだけ。
ちなみに、ドラマの昭和元禄落語心中では、落語監修の喬太郎師、噺家としても登場していた。憲兵に高座を止めさせられる役で。
そしてこの噺家、戦争によるPTSDで酒浸りになってしまう。実際にそんな噺家がいたという話はない。
国策落語を批判する感性を突き詰めると、落語をPRのために使うこと自体よくない、そう考えるようになるのが自然な気がする。
芸術家の自由な魂に制限を加えようというのが、PRの必然であるから。
もっとも、見事なCM作品が世に多数あることも我々知っているわけだ。PRだったら、デキが悪くていい、そんなわけはない。よくできたものは、PRとして歴史に名を遺す。
芸術というもの、むしろ完全な自由の下では作りづらい。制約があることで、花開く。
三谷幸喜の舞台・映画「笑いの大学」はこれだ。戦時下における制約により、どんどんシナリオが面白くなっていくという物語。
「国策落語は当然のようにつまらなかった」わけではないと思う。
柳家金語楼の兵隊落語というものもあった。こちらは、国策により笑いが抑えられたという評価が残っているのだが、少なくとも当初は人気があったわけだ。
題材によって当然つまらなくなる、そんな関係性はない。
そして、笑福亭たま師のプロデュース業の話とも、喬太郎師がつながった。
健保寄席のアフタートークでもって、いまだにガラケーでパソコンも使えない、週刊誌の連載は手書きFaxだと語る喬太郎師。
「国語力とExcel能力を兼ね備えた」たま師と真逆の噺家が、そこにいた。もうじき還暦、案外若いものの。
もっとも喬太郎師だって、プロデュースとは違うが、次から次へ新たな企画を打ち立てている人である。むしろ周囲の人が、喬太郎師で企画を立ち上げたくなるのだろう。
まあ、落語界に適材がいて、適所で輝けばいいのでしょう。