林家彦いち「神々の唄」

私は新作落語をこよなく愛する者である。
当ブログでも新作落語についてもっともっと語りたいのだが、残念ながら新作のインプットの量が足りない。CD全部は買えないし。だから、TVで流してくれる新作落語は非常に貴重である。
先日終了した「柳家喬太郎のようこそ芸賓館」という番組(BS11)があった。形を変え、隔週で続いていますが。
毎週落語を流してくれていたが、客はおらず、高座はクロマキー合成という変な番組だった。たまにスタッフの業務上の笑い声が乗るという、ありがたいが中途半端な番組。
やりにくい環境で、力の発揮できない師匠も多かったと思う。
この中で、堂々たる高座を務めあげたのが林家彦いち師匠。「神々の唄」という噺にいたく感動させられた。

「林家彦いち」。
落語協会で「柳家喬太郎」「入船亭扇辰」と同期。元SWAのメンバー。
師匠は林家木久扇。師匠との関係性がほとんど伝わってこないのは不思議である。
師弟関係は強くないのだろう。それもあってか、誰に影響を受けているのかよくわからない芸風だ。
でも芸はしっかりしている。古典もうまいし、ドキュメンタリー落語(新作地噺)も手掛ける。
格闘系だけあって、肝の据わり方が半端ではない。高座で動じない人なので、芸がブレない。押忍。

さて、「神々の唄」。主人公・ゲンちゃんは嘘つきである。詐欺師というほどではなく、悪気もないのだが、自分を大きく見せたいがゆえについつい話を盛ってしまうのだ。
大半はすぐバレるような嘘で、「ホラ吹きゲンちゃん」と呼ばれ親しまれている。しかしたまに嘘が拡大し過ぎて、引越しまで繰り返す羽目になり、女房を泣かせている。
やっと馴染んだ新しい環境で、またまた嘘をついて話が大きくなってしまった。八幡様のお祭りに天使の歌声「スーザン・ボイル」を呼べるというのだ。
嘘だとわかっている友達が一緒に謝ろうと言ってくれるが、ゲンちゃんは「呼べるよ」と嘘のつきどおしで、友達からも見放されてしまう。
頼れるのは女房だけ。亭主の嘘つきが直りますようにと今日も八幡様の境内で掃除をしている女房に、あろうことか「スーザン・ボイル」になってくださいと頼む。
またかと嘆くが、八幡様に、嘘のつき納めですと願を掛け、やむなく「スーザン・ボイル」のそっくりさんとして歌を披露する女房。これが町おこしとして全国の八幡様の祭りで引っ張りだことなる。

亭主の嘘エピソードも豊富で楽しい噺。
落語というものは、登場人物を見つめる視線が非常に優しい。「嘘つき」という存在を、あちら側に追放したりはしない。トリックスターとして大事にしてくれる。
「弥次郎」、「やかん」の先生、「千早振る」のご隠居などなど。
落語では、先生や隠居は嘘をついても、(芸があれば)決してひどい目には逢わないのである。
「ちりとてちん」の寅さんは腐った豆腐を食わされるが、あれは先代小さんによれば、ご隠居に好かれているがゆえのいたずらなのだそうだ。
この新作落語「神々の唄」においても、ちゃんとこの型は踏襲されている。「スーザン・ボイル」が来るというポスターにも、「どうせそっくりさんだろう。でもいいじゃないか」と言ってみんな集まるのだ。
嘘がばれた後も、女房に罪はないとみんな暖かいまなざしで見守るのである。
笑って、幸せな気分にさせてくれる落語はいいですね。

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「神々の唄」、再度聴き直しているが、改めて感動している。
感動と言っても、人情噺のそれじゃないですよ。新作落語が、「落語」としての普遍性を獲得していく瞬間に立ち会えたという種類の感動だ。
まったくの想像だが、「神々の唄」は、「三題噺」として生まれたんだと思う。すなわち、三つのお題が<嘘つき><八幡様><スーザン・ボイル>。
実際に三題噺として演じられたかどうかが重要なのではなく、アイディアの段階で、三題噺を念頭に置いて作られたのではないかと思うのである。
三題噺では、異なるジャンルの言葉が邂逅することで、新たなステージが誕生する(ことがある)。「芝浜」や「鰍沢」が三題噺として誕生したのは有名。
旅先のみどりの窓口で、本来できない二度目の乗変をしてもらおうと、外国人の振りをして失敗するマクラから楽しい。ドキュメンタリー落語の得意な彦いち師らしい。
噺に入っても、楽しいくすぐり。友達に嘘を咎められたゲンちゃんが、なおもバレバレの嘘を突き通す。
「ゲンちゃんまた嘘ついただろ。バンドさんとか呼べるのかよ」
「知ってるよ。あれだろ、英二さんだろ」
「違うだろ。それは板東さんだよ」
「・・・八十助」

この後、ゲンちゃんに相談を受けた女房から、今までの嘘つきエピソードを咎められる。
知りもしないボクシング経験を話し、話が大きくなって学校のボクシング部の顧問にまでなってしまったこと。そして、無二のパートナーである女房の前でまで、すぐばれる嘘をまたついてしまうゲンちゃん。俺、作詞家だったなどとわけわからないことを言って、自作の詩を見せる。
「こんなこといいな できたらいいな 八幡さまがかなえてくれる」「くじけたっていいじゃないか ころんだっていいじゃないか 八幡さまだって人間だもの」
女房はゲンちゃんの嘘に日々悩まされているが、本当に困っていることは、実はゲンちゃんの嘘が中途半端なこと。嘘をつくなら、設定の甘いすぐバレる嘘ではなく、いっそ嘘をつき通して欲しいのだ。
この点、カミさんには芸人の資質がある。
この後の展開がドラマティックでいい。「スーザン・ボイル」のそっくりさんを引き受ける羽目になった女房が全国で引っ張りだこになるが、このことは、本人の歌手への夢を叶える結果になったということ。
嘘をつくなら芸にまで昇華させればいいのである。噺家さんもそうですが。

作成者: でっち定吉

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