二番手が初音家左橋師。
私は1年ぶりの四の日寄席だが、登場時の拍手にローカルルールができあがっているようだ。
演者が楽屋から出てきた際に、手は叩かないことになったらしい。別に誰かがそう決めたわけでなく、自然発生的なものと思うが。
いったん屏風の陰に隠れ、そこから登場した際に初めて叩く。とはいえ、屏風から出た演者が座布団に腰かけるまではアッという間。
なので、タイミング次第では登場時に手を叩くのを断念し、演者が高座に座ってから思いっきり手を叩く。
これが本式ではあるが、ちょっと面白い。
機械的なルールではなくて、ひとりひとりのお客が適切な拍手をどうすべきか考えているわけだ。
左橋師は、その本式の拍手で迎える。
病気の話。左橋師は数年前に糖尿を発症した。
弟子(古今亭ぎん志)の真打昇進の際、ずっと体調が悪かった。披露目が済んで医者に行ったら糖尿の診断。
吉田羊似の色っぽい女医さんに「長い付き合いになりそうですね」と言われなんだか嬉しい左橋師。付き合う相手は糖尿なんだけど。
女の病である「癪」と、男の病である「疝気」の解説。
ここから入る噺はなにかなと思ったら疝気の虫である。珍しい。
これは志ん生が売り物にしていた、古今亭の噺。
珍しいといっても結構有名な噺だが、今やる人はほとんどいない。
数年前に春風亭百栄師が落語研究会で掛けていた。究極の擬人化であり、新作派が惹かれる噺なのかなと。
百栄師、「陰嚢感謝の日」というクスグリを入れていたのだが、左橋師のものにも入っていた。
古典落語で、腹の中の虫が登場人物として出てくるなんて、この噺ぐらいではないか。
ちょっとバレなところもある噺だが、別にいやらしくはない。
左橋師の疝気の虫は、旦那の前でそばを食べるかみさんがすっとぼけているのが楽しい。
珍妙な依頼をする医者に逆らわない、やや浮世離れしている人。「なんでそんなことをするんですか」と問わないあたりがすっとぼけていて落語っぽい。
虫たちが疝気の旦那から、そばを食べるかみさんの口に飛び移るのを見て、すかさず唐辛子水をぐっと飲ませる。
虫たちは「別荘」を探して右往左往する。左橋師も立ち上がって、座布団の裏を確認したりする。
かつて志ん生はここでフラフラと高座から立ち上がり、客席を抜けて表口から出てしまったという。
しかし四の日寄席の左橋師には、仕事がふたつある。
前座のいないこの会では、演者が自分で高座返しをして、メクリを替えねばならない。
別荘を探しながら、そこまでやって、ご自分の羽織を持ってご退場である。
左橋師は、こんなすっとぼけた味を持った人だったのだな。
知らない一面が見えて嬉しい。
今年は末広亭のトリを聴かせていただいたのだが、小品にも味があっていいな。
仲入りは隅田川馬石師。
ただいまは疝気の虫で。珍しいですねと。
本来はそのまま高座を去りたいんですけど、やることがありますからね。
やまと師が紹介していた通り、馬石師も芸術祭参加の落語会を開く。
私も今年参加した、池袋の「奮闘馬石の会」が、今月は芸術祭参加公演になっている。
「中村仲蔵」通しというのはどういう意味かわからない。淀五郎が付くわけではないだろう。
しかしこの会では当然、そんなでかい演目ではない。
「お前の親父だ」みたいな粗忽の小噺は振らず、侍にも粗忽がいますと。
「堀の内」や「粗忽の釘」も爆笑の一席だが、何度か聴いている。
馬石師の「粗忽の使者」が一度聴いてみたいのだが、「松曳き」だった。まあ、こちらでもいい。
松曳きといえば、桃月庵白酒師のイメージがある。
白酒師のものは爆笑だが、粗忽の連中を突き放して笑うという印象。植木屋だけをまともな人物にしておいて、その視点からすべてを笑う。
それに比べると弟弟子の馬石師は、粗忽の連中に対する目線が非常に優しい。これが個性の違い。
三太夫は、自分でトチる際に従者に「たわけ」などと発するが、これを聴いている側に不快感が蓄積したりはしない。
それどころか、困惑する従者たちも別に三太夫が憎いわけではない。困った人だなとは思っているが。
どちらが好きかというと、私は馬石師。とにかく、企まない人である。
慌ててドツボにはまり、さらにわけのわからない状況に陥っていく三太夫を、突き放さず描写するうちに、たまらなく楽しくなってくる。
国元からの「姉上逝去」の手紙を、さりげなくではなく客が気づくようにしっかり懐にしまう。
客の頭には、三太夫の懐に入った手紙のイメージが残るので、その後どこにやったのか大慌てで探すシーンが実に楽しい。
宴会をしている植木屋を追い出す殿さまも、「いつまで飲んでおる」程度である。少々唐突ではあるものの、状況を把握していないほどの粗忽ではない。
困った侍たちの、楽しい噺。
冒頭から三席、すでに楽しくて仕方ない。