ずいぶん噺家の亡くなった2021年だが、私は追悼記事を書いたことがほとんどない。
理由はいろいろある。
ひとつには、「あのときの○○師匠の熱演を観たオレ」の自慢になりそうで気が引けること。
それから、毎日更新をモットーとして常にネタを探している当ブログにおいては、訃報もひとつのネタとして消化しかねないこと。
だがこんな落語がありましたよと振り返るだけなら、さして抵抗は感じない。
ひとつ、私の持っている音源を聴いて、故人を偲ぶことにしたい。
2017年8月の「柳家喬太郎のイレブン寄席」から。
面白いことに、「ガーコン・リレー」である。「上」が柳家小せん師。
ちなみに当ブログで検索してみたら、私が最後に生ガーコンを聴いたのは、2016年9月の国立(主任・三遊亭円丈)のようだ。
当時はYahoo!でもってブログを書き始めていたばかりで、スタイルが確立していない。
もっと詳細に書き記しておけば、後で楽しめたのになあと思う一方、生の高座で書ける内容は少ない気もする。
小せん師の「ガーコン(上)」は、この放映と同じ年に、池袋春の新作まつりで先に聴き、いたく感銘を受けた。
イレブン寄席の公開収録は、柳家喬太郎師が冒頭の挨拶をするのだが、「川柳師匠、なんとまだ来ていません」。
遅刻の常習者キョンキョンの番組に遅れてくる川柳師。
「86歳なので、そのへんで干からびているかもしれません」。
もしかすると遅れてくるのは、お茶の水にバスで来ようとしていたからかも、なんて。
まずは魅惑のほほえみ、小せん師が、昭和初期の歌謡曲を紹介していく。
レコードが出るようになった時代。
「うちの女房にゃひげがある」とか「二人は若い」。
そして圓生のモノマネによる第二次大戦前夜の各国の策謀。
実に楽しい。
小せん師の歌う戦前の歌謡曲は、川柳師のトリの高座で、その一部は聴いたことがあったようにも思う。
戦後の左翼教育下では、戦前戦中の文化は、だいたい封印されていた記憶がある。
川柳師は右翼でも何でもないが、左翼文化人はあまり追悼しないと思う。
過去を反省するのが大好きな人に限って、反省したい時代を真にリアルなものとしては捉えない。
思想とは関係なく、ちゃんと戦前の歌というものを残している川柳師は偉い。
高座の切れ目に、喬太郎師を交えた鼎談(スタジオ収録)。
ガーコンはいつから始めたんですか、どういうきっかけですかと喬太郎師。
40年ぐらい前からだと川柳師。そして、戦前生まれとしては、価値の大転換を経験しているからなのだと。
そして川柳師。当時86歳。
しっかり歩いているのだが、階段を昇り高座に掛けるのは若干しんどそう。でも、そんなときにも客を笑わせている。
声がもう衰えて出ないなんて高座で語る。
高座を観る限り元気そうだが、立ち上がっての「ガーコンガーコン」は省略していた。しんどかったのか。
ただし高座の後のスタジオで、改めて熱演していた。「泣きそうになってるオレ」と喬太郎師。
私は軍歌を聴くような環境で育ってはいない。まあ、だいたいの人はそうだと思うけど。
現在の私の軍歌に関する知識は、すべて川柳師の高座から得たものである。
開戦後の歌は明るく、そして終戦が近づくに連れ暗くなるというのも、高座から得た知識。
明るいのが「月月火水木金金」。暗いのが「同期の桜」。
歌ばっかりじゃ退屈だろうと、「いろはにこんぺい糖」のざれ歌を混ぜる川柳師。
いろはにこんぺい糖、金平糖は甘い、甘いは砂糖、砂糖は白い、白いはうさぎ、うさぎははねる、はねるはノミ、ノミは赤い、赤いは宝石、宝石はなる、鳴るはおなら、おならはくさい、くさいはうんこ、うんこは黄色い、黄色いはバナナ、バナナは高い。
バナナが高いというのを述べたかった川柳師。
明るい歌の代表として、「碇を上げて」。パンパンパンパーパパー。「あ、敵の歌だ」。
どんどん戦況は悪くなり、若い青年が特攻隊として出陣していく。
そんな時代をしんみり語る。ラジオからも、暗い歌が流れてくるのを聴いていた子供時代の川柳師。
戦後のバイアスを抜きに、こういう時代のリアルな空気を語るこの噺は非常に貴重である。
敗戦後は、打って変わってジャズの時代になる。弾ける川柳師。
ジャズにどっぷり漬かっていながら、いっぽうでジャズを流す進駐軍の目論見についてもドライに語る。
そして、有名なひとりジャズオーケストラ。後輩噺家が必ずマネする口ラッパ。
ガーコン、何回聴いたろうか。繰り返しに耐える高座だし、もっともっと聴いておくのでしたな。
でも、トリで聴けたのはいい思い出である。
来春の池袋の新作まつり、2日ぐらい追悼公演が入るんじゃないかと思う。
そこまで待てなければ、暮れの新作まつりでちょっと出せないかな。小せん師でもって。