一席羽織を脱がずに終えたおさん師、「くだらないですね。やってて楽しい噺です」。
続いて「縁起ものの、泥棒の噺をします」。
私が初めておさん師を聴いた際の「花色木綿」でもやるかなと思ったら、芋俵。珍しめの噺。
ここで羽織を脱ぐ。
呑気な泥棒ふたりと、足りない松公がやり取りする、呑気で平和な噺。だが首尾よく芋俵を預からせたところでうつらうつらしてしまった。
気が付くとサゲ。展開は一本道だが、俵の探り具合が肝なのに。
ちょっともったいない寝落ち。
しかし仲入り休憩でちゃんと寝て、目を覚ましてから聴いたトリの「愛宕山」は圧巻であった。
私の認識では「面白い」噺家であるおさん師、実に上手い人でもあったのを再発見。怪しい本格派。
こんなところが上手い。
- 落語の客と主人公、幇間の一八との距離が、徐々に接近していく
- 情景描写力が圧倒的
- 一八の心理描写にリアリティがある
先の2席もそうなのだが、おさん師は古典落語を緩やかに語っていく。グイグイ迫ってはいかない。
その分、聴いていてとても楽である。演者が解釈を押し付けてこないからだ。
しかし、徐々に徐々に一八が客の心中を占め、やがていっぱいになってくる。
偉そうなことを言いつつ愛宕山を登るのにひいひい言っている一八について、「ほれ見たことか」という感想を経由せず、こういう人なんだとすんなり染み入ってくる。
実は噺を完全にコントロールしているおさん師。
おカネの噺をしますと断り、二ツ目貧乏時代、パチンコ狂いの爆笑自虐マクラ。
オケラになって、「下を向いて歩いたらダメだ」と呟くおさん師。
この場面、山を登る一八に後で出てくるのが上手い。一八は下を向くのだけど。
愛宕山はつい最近、春風亭一花さんから聴いた。
菊之丞師から教わったようなことを聞いたのだが、おさん師のものもよく似ているので、出所は同じみたい。
ただし、噺が登山の前夜から始まるスタイルは、上方のものも含めて初めて聴いた。
一八は、当初威勢よく、サイサイ節をうなりながら登っていく。
実にもって、軽やか。
そして通常影の薄い、もうひとりの幇間、繁八がしっかり描写されているのにも驚く。
役割としては記号であり、独自の心理描写がなされるわけでもないのに、なんだか妙な存在感。
もっとも、芸者衆は影が薄い。女は不得手なのか。
感心する場面はまだまだあった。
ようよう登ってきて、見晴らしの景色のすばらしさ。見事に客に映像を届けてみせる。
そしてかわらけを投げる旦那の描写がリアル。見てる落語の客が、的を抜けるかどうか、ドキドキする。
別に、抜けようが抜けまいが、どうってことはないのに。
この流れで、そのまま小判投げへ。旦那、頑張れという心理と、一八と同じく「なんてもったいない」という気持ちと、両方沸いてくる。
さらに上手いのが、一八が旦那になにをするつもりなのか聴く場面。
旦那はさらっと「かわらけ投げだ」という。もちろん、愛宕山を知ってる客ばかりではない。
だが、一八がわからないままでいるところに、後からかわらけの説明がさりげなく入るのだ。なるほど、客が一斉に腑に落ちる。
落語の一般的にわからない用語、どうわからせるかというのは演者の工夫次第。
中には懇切丁寧な説明をしてしまい、噺の雰囲気を損ねてしまう残念な人もちらほら。
一八の理解度合に沿って説明を入れてくるおさん師、すごいね。
同じようなのが、深さの単位「尋(ひろ)」。
谷底までどのぐらいあるかと訊くと、80尋だと。一八、一度その深さを心にとどめ、手を広げて、1尋がこのぐらいで、これが80かとつぶやく。
ここまでは、現実世界のリアリティに満ちた噺。他の演者よりずっと地に足がついているぐらいで、むしろそれがいい。
だが崖に降下してからは、あり得ない噺に替わってしまう。
どうやって上に上がってくるかのくだりになり、初めて地のセリフで説明をし出す。
私は個人的に、地のセリフというもの、会話で説明できればそのほうがいいと思っている。
だが、急に入れてくるおさん師の地のセリフは、「ここからナンセンス落語なんですよ」というサインに聴こえる。実に自然。
そのままとんとーんとサゲに向かう。客にそんな馬鹿なという疑問を与えないまま、楽しさだけが着地する。
旦那のキャラも、一席終わるころには完全にわかってきた。
とにかく、シャレのレベルがキツい人なのだ。ここをくっきり確立していると、「オオカミに食われて死んじまえ」というセリフも、まったく非情には聞こえない。
いや、素晴らしい。
おさん師はいつも楽しいが、過去たった一回、イマイチだなと思ったのが、残念なことに池袋のトリ。
この愛宕山のようなすごい噺があるなら、再度トリで聴きたいものである。ステージを着実に登っているのだ。
更新時刻が遅れついでに、明日もちょっと遅らせます。
NHK新人落語大賞のオンエアを見て、即出ししたいと思っております。