朝になってから書き出しております。
追悼・三遊亭円丈…「伝説の人」が落語界に起こした「革命」とはなんだったのか?
当ブログでしばしば槍玉に挙げている堀井憲一郎氏のコラム。
だが、決して嫌いな人ではない。末端にいる物書きからすると、むしろ強い尊敬を抱いているといっていい。
NHK新人落語大賞に、広瀬和生氏と出ていたのにも、敬意を払っている。お二人とも、採点内容もさすがだったと思う。
今回の円丈追悼記事も評判はいいようだ。
この内容を直接批判するわけではない。記事を読み、私のセンサーに届いた違和感とその考察について。
この見事な記事において、「円丈は上手かった」と一言も書かれていない。
落語界の偉人であったと全編にわたって記されているのに、「上手い」という技術面の評価は出てこないのだ。
もちろん技術を全面的に打ち出して語るのもかえって不自然。だが堀井氏の、円丈評はまず「声が大きい」。
技術面に限定するなら、むしろ貶めてすらいる。
確かに堀井氏も、そして広瀬氏も、円丈師についての評伝はほとんど書いていないはずだ。
特に広瀬氏は、生理的に好きじゃなかったんじゃないかという気配すらする。
円丈落語のなんともいえない世界は、古典落語とのハーフであるチルドレンたちにより、薄められ古典落語のパワーを注入され、落語ファンの腑に落ちるようになった。
これが私の理解だが、世間の評価からも大きくはズレていないと思う。
堀井氏は、チルドレンたちが円丈師をストレートに引き継いでいるように書いている。これは私の認識とはまるで違うけど。
とにかく、記事を読んだ私自身驚いた。
確かに円丈師を聴いて、「上手い」という感想を持ったことなど、私にとっても恐らく一度もなかった。
そういう技術的な形容では表せない、魂のほとばしる高座だったが、それにしてもだ。
三遊亭円丈という人の特異性の一端がうかがえる。
円丈師は下手だったのか?
そんなことは誰も言っていないけど。言うとしたら、新作嫌いの古いファンだけ。
本当に下手な噺家を、後輩が慕うはずもない。
円丈師は、圓生に認められた技術の持ち主だったというのが、評価の前提になっている。
無責任なファンはそこを無視して下手と言えただろうが、古典落語好きほどスルーできない。
でも円丈チルドレンも、円丈師の技術についてはさして語っていない気がする。
だいたい、「古典落語を極めている人」だというのは、円丈落語を評価する、その前提として出てくるだけで。
ああ見えて免許皆伝なんだからねという。
新作落語においては、技術面はあまり語られない。
先に亡くなった川柳川柳師が技術を語られないのはよくわかるのだが。この人ももちろん下手ではないけれど。
いったん違う世界を作り上げてしまうと、既存の落語体系ではもはや批評ができなくなるのであろうか。
といっても、たとえば昇太師は喬太郎師を、演技の面から褒めたりしている。円丈落語には、そういった形式面での評価はない。
細かい部分を見れば、堀井氏が書くように、「大声」だけが目立つ高座だったような気も確かにしてくる。
そして、常にふざけている。登場人物も揃って。
人情噺でもふざけている。「たっぷり笑わせておいてしんみり」という点についていえば、他の新作人情噺と変わらないのだが、円丈落語については最後までふざけている。
でもやっぱり上手い人だった。
大多数の客を、決していたたまれない気持ちにさせない部分が。
ここでしくじってしまうと、もう先には進めない。古典落語に必要なのとは、あるいは異なる才能かもしれないが。
最近You Tubeにアップされた「パパラギ」は過激すぎてスベり気味だったけども。
ともかく円丈師は、終始ふざけることで、客の懐に飛び込み、アジャストしていた。
特異な世界観を、標準的な客に合わせてもらうことに成功していたその技術、やはり侮るわけにはいかない。
You Tubeに合法アップロードされている、柳家喬太郎師の「わからない」は、見事な作品。いい場面でむせ続けている客が気にはなるが。
円丈落語の代表といっていいものだ。
ただ、円丈師がふざけていたであろう部分を、喬太郎師ももう少し解釈しなおしている。
主人公のちょっと頭の弱い男を、喬太郎師の得意なキャラに引き寄せている。
最近、喬太郎師の描く文七に、この男と同じ要素を見出したばかりである。喬太郎劇団のメンバーで、気の弱い人物を担当している。
喬太郎師は、技術面から見ても上手い。
だがこれも、喬太郎ひとりで生み出せた世界でないことは確か。
プロの魂を円丈師が揺り動かした。そんな作品。