前回書いた記事はなかなか反響があったので、調子に乗って第2弾。
先にこの記事を書くことの、自分の中での葛藤は明らかにしておく。
私は若い人の活動を鼻で嗤う老害など大嫌いなのだが、この記事では私自身がジジイの立場になってしまいかねない。
それから、彼らの活動の中身を具体的に知らないで批判することにも躊躇がある。
だが活動を観に、聴きに行く可能性など今後も含めてない。彼らの側からも心理的に排除されるだろうし。
自分自身に対するセンサーもフル稼働させつつ、それでもなお桂枝之進とZ落語の活動に、嫌なものを感じた次第。
前回の記事をアップした際には、すでにパクリとされる「Z寄席」の出演者であり、批判の矢面に立たされた被害者である、立川志の春師からコメントが出ていた。
志の春師自身もZ寄席の主催者(博報堂)に不信感を持っているということ。しかしながら、Z寄席の参加者に罪はないということ。
これにより、噛みついてきたZ落語と枝之進、そしてシンパをやんわりと批判する。
見事な大人の態度。
その後、本家Z落語とパクリとされるZ寄席との間で話し合いがもたれ、和解がなった。
Z寄席は調べが足りなかったことを詫びたが、剽窃ではないということで決着。
パクリでなかったことを双方で確認したということは、さかのぼってZ落語が噛みついたその態度が「行き過ぎ」であったという結論になる。
だから枝之進も、その点を詫びなければならないのだが、それはない。
志の春師に詫びた事実も、謝罪を受けた側からしか語られない。謝罪した側から公にしないと、社会的には謝罪でない。
なぜZ寄席がパクリでないことを認めざるを得なかったか。
書かれていないがこれは当然。もともとZ落語というものが、世間でさしてメジャーでないからである。
非常にメジャーな人が、「ぼくらの活動を知らないなんてよく言えますね」と追及するのは簡単だが、あいにくそうでなかった。
さらに志の春師は、Z落語の側も、過激なシンパに煽られてしまっ(て道を踏み外し)たのだろうと結論付ける。
Z落語に不快感はないと書いているが、シンパに煽られて暴走したその行動を、さらにやんわり批判している。
やらかしたな、枝之進。
だが、この青臭い暴走自体には、私自身もかなり同情し、シンパシーまで感じてもいるのだ。自分の聖域を汚されたと思い込んで立腹するところまでは自然な感情。
自分たちのファンだけを見ていたその視野の狭さは別途批判できるとしても、しかしその積み上げから出てきた、当然の怒り、行動なのであった。
だが結果的には思慮が浅かったのだから、暴走の事実はちゃんと詫びないと。
博報堂が詫びにきたので許したような結末にしてしまっている。
世間に対し行き過ぎましたというお詫びはなされていない。きっとまだ、本気で許してやったつもりになっているのか。
さて、そもそもの話。
Z世代に向けた落語をやろうという、その企画自体、ダメだろうと私は思っている。
中学生の息子を観察していると、よくわかる。
戦後から数えた現代は、子供たちが「伝統」にもっともアレルギーを感じなくなった時代である。
現代の子供にとっては、室町時代あたりから現代が、シームレスにつながっている。
彼らがアナログ時代に興味を持つのは、断絶しているからではないと思う。連続性を感じているからだ。
戦後に価値観の急転換を経験した、団塊より上の世代のような、歴史に断絶を感じた世代のほうが特殊なのである。
革新政党が若者に刺さらないのも、これが大きな理由だと私は思う。
今になって我々、浮世絵などずっと人気であったような錯覚を起こしかねない。
でも私の子供の頃なんて、永谷園のお茶漬けの中だけの文化だったのだ。教科書にも載ってなかったし。
歌川国芳なんて今でこそ大人気だが、名も知らなかったものな。
断絶された文化史は、最初から接続されていたかのように、次世代に伝えられていく。
寄席には年寄りがたくさん来るが、多くは伝統芸能を再発見した人たちである。
うちの子なんて、日本の伝統再発見なんて原的体験は一切持っていない。
別にZ落語の世話にならなくても、勝手に落語好きになる。
Z世代というのはうちの子より上なわけだが、さらに下の世代の感性を働かせると、Z落語の活動なんてハア?である。
伝統文化に興味を持つ子は最初から持つ。持たない子は最初からかかわらない。
上下の世代を巻き込まない限り一大ムーブメントにはなり得ないが、Z落語は恐らく、狭い世界の中での成功のほうを望んでいるのだろう。
自分たちの世代を特別なものだとしてより分け、せっせと「落語みたいなもの」を再生産しているようにしか思えない。
志の春師が不快感を禁じえない、Z落語のシンパはどんな人たちだろう。
上の世代がとにかく許せないという連中か。
上は間違っていて、我々が新しい秩序を作っていくという。あいにく、自分たちは下から支持されないので、そうはいかない。
れいわ新撰組支持者と非常に近いノリを感じる。
了見が狂っているのに、数の上でも自分たちが多数派だと思い込みがちなところまで。