古典落語というものは、基本的に何度も同じ噺を聴くことになる。
「また同じ噺か・・・」とため息をついているようでは、落語好きを名乗れない。
そうはいっても、掛かると嬉しい噺もあり、いっぽうでちょっと嫌だという噺もなくはない。
Yahoo知恵袋など見ていると、こんな意見が見つかる。
- 人が死んだという嘘で他人を担ごうとする、「新聞記事」が嫌い
- 若旦那が身勝手すぎる「菊江仏壇」が嫌い
- 武士も番頭も勝手すぎる「柳田格之進」が嫌い
- 斬られて当然の町人が出てくる「首提灯」が嫌い
必ずしも「同意」するわけではないけど、全部よくわかる。
嫌いなツボは人それぞれだけど、嫌いなものは仕方ない。
私にも嫌いな噺がある。
「家見舞」(または「肥瓶」)。
汚い噺だ。
なにも、汚いから嫌いだというわけではない。
引っ越し祝いのカネがないので、兄貴分に「掘り出し物」(文字通り地面から)の肥瓶を贈って済ませようという了見がよくわからないのだ。
お世話になってる人に、肥瓶の水を口に入れさせるひどい仕打ちをしておいて、平気な顔でいられるのもさらによくわからない。
兄貴分のところでごちそうになるが、豆腐、おひたし、古漬け、米の飯、そのすべてに自分たちの持ってきた瓶の水を使ったと知り、「願掛けで絶ちました!」と叫ぶ弟分たち。
ここが噺の一番のウケどころだが、どうもすんなり笑えない。
「五代目小さん芸語録」という、バイブルのような素晴らしい本が手元にある。
これによると、五代目柳家小さんは、弟子の小里ん師に、「今度、金ができたときに買い換えて持っていこうという了見でやらないとダメだ」と教えたそうである。肥瓶を贈って、決してそれでおしまいではないのだと。
なるほど、それならちょっとわかる。その了見があれば、川の水で瓶を洗うシーンも重要で、カットしないほうがいいこともわかる。
だが、それでもやっぱり納得いかない。「義理とふんどしを欠かさない」江戸っ子の了見を笑う噺なのであれば、話の展開がちょっと違うんではないか。
弟分たちが、瓶の水を使った料理を出されるたび、「事情がわかっているが義理は欠かしたくない」ので、「泣きながら食う」という展開だったら腑に落ちる。これでも一本の落語になると思う。
「兄貴、この豆腐の水はどこから汲んできたんで」
「お前たちが持ってきてくれた瓶の水だよ」
「瓶の水・・・ううー、うまい」
「泣いてやがる」
「かくやのこうこ、いいですね。ぬか床からガサッと取ってきて、とんとーんと刻んで水にさらして・・・ううー、うまい」
「また泣いてやがる。泣くほど旨えか」
これでいいじゃないか。本来のサゲにもちゃんとつながるし。