噺家の漫談は誰に語り掛けているか

運がいいと朝から読める、でっち定吉らくご日常&非日常です。
今日は運の悪いほうでした。明日は更新できたとして夜かなあ。

先週は三遊亭遊雀師で楽しんできた。
自称本格派の遊雀師だが、引き出しが実に多い。形容しようがなくてとりあえず本格派と呼ばれる人とはだいぶ違う。
独演会では、寄席と角度の違う芸が楽しめるのもいい。

マクラ漫談が実に楽しく、そして十八番の替り目をメタ落語として演ずる遊雀師。
古典落語の中に関係ないギャグを入れるのは、普通は地噺でやること。
地噺の場合、関係ないギャグを本筋にブッコむ脈絡のなさこそ味だが、遊雀師は似たようなことをやっていても実にシームレス。
自在闊達。

高座からわりと近い席で遊雀師と向かい合い、そのパワーをもらって考えたことがある。
「演者から漫談を聴くときには、ワンクッション置いた聴き手を設定している」ということ。
あくまでも私の感性なので、まったくピンと来ない人もいるでしょうが、ちゃんと説明しますので。

高座に上がった演者は、素のままではない。
1枚、噺家としての皮を被っている。
いっぽう、聴き手のほうもむき出しでいるとは限らない。少なくとも私はいつの頃からか、落語を聴く「聴き手」をひとり用意している。

遊雀師に関してはいえば、数ある噺家の中でも好みのドンピシャにある。
だが、全員がドンピシャではない。
出かける際に顔付けを見ているから、あまりにも嫌な人にはそうそう出くわさないはず。だがそれでも、ひどい目に遭うことはある。
一週間ぐらいトラウマに襲われたりなんかして。誇張ではない。
そうした経験を踏まえ、いつの間にか私は「聴き手」をひとり用意するようになったらしいのだ。特に漫談。
ひどい体験を別人格に担当してもらうビリー・ミリガンみたいな。

ひどい噺を聴いたときは、私が聴いたのではない、用意した聴き手が聴いたのだ。
私と聴き手の間のパイプを切断して、私の心中にダメージが入ってこないようにする。そのすべを覚えたらしい。

このワンクッション挟むやり方は、意外と大好きな演者に対してもメリットがある。そう気づいた。
好きか嫌いかは、1かゼロかではない。100点満点で85だったら相当に好きだが、15点は嫌いなところがある。
今回の遊雀師だったら、オリンピックの話を延々していた。最大公約数狙いとしては決して悪くない戦術。
だが世の中には、東京五輪でもってオリンピックに反対する快感を覚えた人もいるわけだ。もともとスポーツ嫌いだったなんて人まで、よってたかって集まった。
私自身はスポーツ好きだが、ハラスメントと一体で考えたときの、スポーツ嫌いの感性は十分わかる。
スポーツ嫌いなのに、バイアスロンなんてマイナースポーツの話を延々されて、うんざりなんて人も、想像の外にはない。
こうした状況において、聴き手をひとり用意すれば、クッションが入って楽しく聴けるのでは。

皮を一枚被った演者のほうにも、できることがある。
客ひとりひとりにではなく、その場の最大公約数をいち早く見つけ、そこに焦点を合わせて語り掛けること。
演者の語っている相手と自分の感性との間にズレを感じた客は、ズレが大きくないのなら、自分で埋めようとするだろう。
語る相手を見つけ、あまりにも上から語らないことも重要だ。ほんの少し上ぐらいがいい。
タメ口で語る遊雀師は語る位置の高さも最適。

今回の遊雀師から、漫談の技術をビシビシ感じた次第。
最大公約数を狙い、いつの間にか大多数の客と、個別につながっている。正確には、客がそういう誤解をする。
だからこそ、高座で政治思想なんか出したら最悪なのである。客を切り捨てる行為なわけだ。

最大公約数を狙う語りは、漫談メインの人や、マクラに定評のある人に必須の技術だと思う。
話術と、話題それぞれにおいて。

鈴々舎馬風師の語りは、客に非常に近い。
だが師は実のところ、客を狙い撃ちなんかしていない。そうした錯覚を与えるのに長けているだけで。
語りの位置の高さも最適。落語界では大変偉い人だから、高さを上げていっても許されるはずだが、そうはしていない。

語りのテクニックを論じるのに、私がよく例に出すのが当代三遊亭圓歌師。
先代もそうだった。
馬風師と同じく、語っている相手も、位置の高さも最適。

「誰に語り掛けるか」「語り手の位置の高さ」の観点で捉えたとき、私のちっとも好きでなかった故・林家こん平もちゃんと技術は持っていたのだなと気づいた。少なくとも、誰に語っていたのかは明確だ。
他方、三笑亭可楽師なんて、漫談メインとしてもずいぶんとおかしな対象に向かい語り掛けている気がする。

マクラというと小三治だが、今日はやめておく。
私が小三治のマクラにまるで惹かれないことは確かだが、今日のテーマは最大公約数であり、そこから外れた聴き手に語る資格はないだろう。

今日も林家三平批判記事がネットに出ていた。
世間はよくもまあ、三平叩きに飽きないものだと思う。だが私自身もこの話題に飽きていない以上、当然か。
三平の「圧のムダな強さ」を当ブログでは批判したのだが、今日出した2つのテーマについても、全然ダメ。
誰に向けて語っているのかわからない。だいたい、当人が高座でむき出しだ。
そして、高座の高い場所から語り掛けているのに、すでに聴き手に見下される位置にいる。
バカキャラでずっと親しまれてきた木久扇師だって、高座ではちゃんと、客よりもちょっと上にいるではないか。
長老だからということではなくて、若いころからそうだったと思う。

まあ、やっぱり三平には先はない。
既存の落語の体系にない語りしか持っていない人に、修業をし直すすべはない。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。