古今亭志ん輔「宮戸川」

今日はモデルナのブースター接種をしてまいりました。
接種して6時間、今のところ大きな反応なし。
副反応で2日潰れるのに備え、今日の朝までに仕事にメドをつけております。
副反応の始まる前にできる仕事は、丸もうけだ。

そんな流れで、ブログも更新しましょう。
相変わらず佑輔バブル。
当ブログ記事のアクセスでは、すでに菊一、小三治、夢之助、扇兵衛に匹敵している。
小ごと、かけ橋に迫る勢い。
「立川流の傲慢」や九蔵問題はすでに抜いた。

今日は弟子のほうではなく、「らんまんラジオ寄席」で流れたばかりの、師匠の一席から。
先日、同じ日の録音である歌武蔵師の「子ほめ」を激賞したのだが、今日はそういう扱いではない。
もっとも、この師匠が好きでないからといって、必要以上に貶めよう、そんな目的ではない。
どうして気に入らないのか、これを素材にじっくり考えてみたいということである。

何度か書いているとおり、志ん輔という師匠に好意はほぼ持っていない。
どちらかといえばそのふるまいが気に入らないのであり、高座そのものが大嫌いということではない。
だが人間性が嫌いなまま、高座を好きになるのは大変困難なことである。
落語研究会にはたまに呼ばれるが、その高座、ほとんど保存していない。そもそも聴いてもいない。

だから、らんまんラジオ寄席を聴いたのも奇跡に近いのである。今回の弟子の復活という事件がなければ、宮田陽・昇とぴろき先生を聴いて、トリの一席を普通にスルーしていたと思う。

嫌いな高座をブログで書かせてもらおうと思い、4回繰り返し聴いた。
耐えられないのを我慢、というほどではないのだが、まるで楽しくはなかった。
客観的な評価は人によりいろいろあろうが、主観では完全にその嫌な部分を理解できた。
別に、「意外とよかった」という着地でいけなかったわけではない。当ブログ、そんな着地もよくするが、今回は違う。

関係ないが、ラジオでは「宮戸川」を「みやとがわ」って発音してた。
私「みやどがわ」の認識でいたけど?
調べたらWikipediaも「みやとがわ」になってる。まあ、どっちが正解ってもんではないと思うが。

さてどこが気に入らないか。

  • マクラが本編に合っていない
  • 「締め出し食べちゃった」がしつこい
  • 霊岸島の伯父さんの人柄がまったく見えてこない
  • 噺から漂う色気がない

こんなところ。
さて宮戸川は、古典落語の中でも一二を争うぐらい好きな噺。
若い人のほうが向いているが、ベテランがやっちゃいけないということはない。
やらないと思うけど、三遊亭小遊三師や入船亭扇遊師がやったらこれは聴く。
五街道雲助師がDVDを出しているが、あいにく聴いたことがない。
とにかく、別に志ん輔師がやっちゃいけないということではないのです。

嫌いになってからはその声も生理的にダメになってしまった。
高く、しかしちょっとざらっとした声。本来好きになれる声のはずだが。

客のいろいろを描いてから、碁将棋に凝ると親の死に目に会えないと。
えー、宮戸川の導入に碁は必要なのかあ?
男女のマクラでいいのがいろいろあると思うんだけど。まあ、これはいいや。

一番嫌なのが、「締め出し食べちゃった」。
お花にセリフを言わせるのに、間を置いてから語る。さらに、もう1回繰り返す。
前座は宮戸川やらないが、前座が教わった通りこんな間で喋っていたとしたら、もうやたら白けてしまう。
若手が間を置いて喋っているとしたら、それはウケたいから。でも落語、狙うとだいたいそれるもの。
昔も今も、サラッとやったほうがウケると思うんだけどな。
落語全般の話。非常にサラっとしていたものが、あるときからしつこくなり、また最近お笑いの影響でサラっとするようになったのでは。
過渡期にある、古くさい落語だなあと。

そして霊岸島の伯父さん、ボケる婆さんに対するツッコミの役割しか果たさない。
この伯父さん、早飲み込みで、甥の半ちゃんにまで警戒されている人である。
絶対に伯父さんには、ボケの要素が必要なはずであるが、かけらもない。
役割だけを果たす、実にもって人物が見えないキャラクター。愛嬌も薄い。
そして残念なことに、この伯父さんはリアル志ん輔師だと思う。
楽しい伯父さんが、小言幸兵衛になってしまった。

いい宮戸川を聴くと、実に高揚してくるものだ。
若い男女の瑞々しい感性がこちらにしみこんできて、実にいい気分になるのだ。
この一席では高揚しない。
そして、虎視眈々と半ちゃんを狙っているお花のセリフを聴いても、演者の顔しか浮かばないよ。ラジオだけど。

寄席芸人伝のエピソードを思い出した。
あいにく当ブログでは取り上げていないのだが、中年を過ぎて宮戸川を掛ける噺家が、その合わなさを超ベテランにたしなめられるというもの。
第5巻の62話「老木の花 林家金蔵」である。
老噺家は、世阿弥の花伝書を引いて、「時分の花」という言葉があると語り掛ける。
たしなめられた林家金蔵は、花伝書を読み、初老に差し掛かる噺家の心構えを学ぶのである。

まあ、先に名を挙げた師匠のような、枯れつつも瑞々しい芸があればやったっていいと思うが。
実にもってしっくりこない一席でありました。

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作成者: でっち定吉

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