春風亭百栄「アメリカアメリカ」@鈴本演芸場(下)

仲入りからだから、あっという間の百栄師登場。
いつもの「日本一汚い百栄」から。どんなときでもこれは欠かさないが、でもこの日はそれだけで切り上げる。
私ももう、なんでも25年活動しているらしいんですと。
アメリカに10年いました。
本当は9年と1か月ぐらいで帰ってきたんですが、面倒なので10年って言っています。10年いたと書いてあるものは、だからウソです。
その間ずっと、アメリカのためにも、日本のためにもならないことをしていました。
でも、それで師匠栄枝とつながりができて落語家になれたんですから、これも縁です。
師匠はアメリカが好きで、ニュージャージーとか、現地の日本人のためによく公演をしていたんです。南米も行って、ペルーではフジモリ大統領と仲良くなったんですよ。
ささやかだが、師匠の追悼だ。

アメリカにいても、私は日本人のコミュニティで生活していただけで、英語も中2レベルなんです。
そんな私でも、視て面白いテレビ番組がありました。
アメリカ人のおじさんが出てきて、喋りまくっている料理番組です。その料理見ても、ちっとも食欲をそそりませんけども、なんだかやたら面白いんですね。
日本には、エミちゃんとかを除くとこんな料理番組はないですねと振って本編へ。

まったく内容を調べずに聴きにきたネタ出し、「アメリカアメリカ」。
繰り返し劇中に登場することば。アクセントは「アメリカアリカ」でしたね。
「エコエコアザラク」とか「海砂利水魚の」と一緒。
さすが自信の8本の中に入れるだけあって、実に楽しい噺だった。

そして、面白さの質自体が相当にユニーク。
別に、劇的なストーリー展開の噺ではない。
なんだか、地噺みたいだなと思った。紀州とかお血脈みたいな。
この私自身の感想も、かなり変なのだ。アメリカアメリカは、ちゃんと登場人物ふたりの会話でできていて、演者が地に返るシーンなんかひとつもないのだから。
でも、いい地噺を聴いたときに似た、ジミハデなじわじわ感を味わったのである。
何分の高座だったろう。マクラ短めだったわけだから本編はそこそこあったのだろうに、完全に現実の時間を見失った。
劇中の時間に完全に支配されたのだ。

過去の百栄師について書いた、自分自身の記事を読み返し改めて思った。新作落語家としての百栄師は、世界のルールをちょっとだけねじってくる人である。
ねじり具合が絶妙なのだ。基本的には現実世界であり、ごくわずかにルールが違っている。
ねじった部分が、私が新作落語についてたびたび述べている「飛躍」となる。

さて「アメリカアメリカ」とはなにかというと、料理の名前。
マクラで振った料理番組が噺の設定。
アメリカの番組を翻訳しているのかと一瞬思ったのだが、どうやら日本の番組だ。
料理人は日系3世のアンディ・ヒロセ。広瀬というのは和生氏からでしょうかね。もうひとりの登場人物は、番組アシスタントの吉田さん。
数えて500回を迎える、「アメリカンサイドディッシュ」(だったかな)という、料理紹介番組。

アメリカアメリカは、コネティカットの料理だが、地元でも存在自体あまり知られていないらしい。
アイダホのポテトと、オニオン、ニンジン、そしてなぜかサヤインゲンもしくはサヤエンドウを入れて、炒めて煮込んで醤油とみりんで味付けする料理。
客にはすでに、「あの料理」が脳裏に浮かんでいる。

百栄師の噺を取り上げるとき、なぜかネタバレしてはいけないと思わせるなにかがある。
いや、別にネタバレしたところで噺の価値などさして損なわない。それもわかっているのだけど。
でもやっぱり躊躇するので控えめに。

主人公のアンディは、アメリカンジョークを連発する。きわどい下ネタも。
アシスタントの吉田さんは、「アメリカンジョークって言っておけばつまらなくていいわけじゃないですよ」と厳しめのツッコミ。
アメリカンジョークとは、大げさな身振りで照れずに言い切ればいいというだけのもの。
そして、劇中の役割としてはスベリウケなのに、このアメリカンジョーク、本当に面白いではないか。
今回、この部分にもっとも驚嘆した次第。
落語というもの、特に新作落語において、スベリウケを用いているものがたまにある。スベリウケである以上、つまらなくていいし、むしろそのほうが噺を作りやすい。
なのに、そのルールはしっかり押さえておきながら、アンディのジョークは面白い。
なぜ面白いかというと、落語だから。しっかり登場人物の個性を描き切っているから。

私は新作落語の効能をよく述べている。
新作に手を出すことで、結果古典落語が活きる噺家だっているのだ。白酒、わさびなど。
だが古典落語大好きの百栄師は、ぶっ飛んだ新作に、古典落語のエッセンスをずいぶんと注入しているなと。
ヒザ前を務めた小ゑん師と同様。
アメリカンジョークでスベるアンディは、原典が古典落語にある。そんな奴はいないにもかかわらず。

構造にすでに参ってしまったが、ちゃんと楽しいサゲもついていた。
これは多くの落語のような、サゲのためのサゲではない。噺に劇的な効果をもたらすもの。
でもやっぱり、私は古典のマインドを感じたのでした。
落語の神さまがちょっと降臨した、そんな気さえしたのです。

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作成者: でっち定吉

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