落語には、サゲより大事な「いただき」がある(上)

ネタがないので、久々に「サゲ」について書いてみようかと、いったん思った。
私は「昔ながらのオチ分類」という不定期連載をしている。今まで書いたのは次の通り。

  • 考え落ち
  • 地口落ち
  • とたん落ち
  • ぶっつけ落ち
  • 逆さ落ち
  • 間抜け落ち
  • とんとん落ち

だんだんアクセス数が低下気味。まあ、当然といえば当然。
ただ検索にはよく引っかかるので、特に序盤の記事、累計アクセス数は悪くない。
資料として参照しに来る方はそこそこいる様子。

この連載は、最後「シャレ落ち」で終わろうと思っている。既存の分類にない新たなこの分類があると、足りない概念が埋め合わされ、ずいぶんスッキリするなと思っている。
もっともこの分類、タイトル通り「昔ながらの」である。
今後役立つ分類としてブラッシュアップしているわけではない。
そもそも、桂枝雀が否定した分類である。枝雀は「ドンデン」「謎解き」「へん」「合わせ」の4分類を提唱した。
私はその、枝雀分類をも否定しており、自分でひとつ体系化もしてみた。
だから、ふたつ古い分類に愛着を持っているわけではない。あくまでも、ちゃんと迫ってみると面白そうなので追っているわけである。

さて、昔ながらの分類を「シャレ落ち」で完結させようかと思った。
だが最近、サゲを分類することの不毛さを感じてきたのだ。
不毛なことは最初からわかってやっているし、たびたびそう断ってもいる。
ただ意味論の前に、形式論としてどうなんだろうと。落語における、形式的に最も劇的なシーンって本当にサゲなの? という疑問が今さらふつふつと。

「今朝は帰しませんえ」「袈裟返してくんないとお寺しくじっちゃう」

錦の袈裟のサゲ。分類すると、ぶっつけ落ちではないかと。
ぶっつけ落ちとは、同じワードで違う内容を言い合っているもの。
この、非常にうまく作ってあるこのサゲこそ、サゲの非重要性をかえって浮かび上がらせているのでは。

錦の袈裟の場合、サゲは噺を締める機能しか果たしていない。
サゲが最重要な噺ももちろんある。猫の皿の「ときどき猫が三両で売れますんで」とか。
だが、錦の袈裟の場合、サゲより前に、最重要のシーンがある。
与太郎が、殿さまと勘違いされ、至れり尽くせりのサービスを受けているのが、他のメンバーにわかる朝。
錦の袈裟は、ここが最重要。決してサゲじゃない。

逆さ落ち」について書いた際、「錦の袈裟」にも触れた。
サゲの機械的分類だと、ぶっつけ落ちと思われるこの噺だが、最重要部分が「逆さ落ち」っぽいのである。
つまり、最も愚かしい与太郎が最も持ち上げられるという、価値の大逆転劇があるのだ。
これを踏まえた後のサゲは、出汁を取った後の煮干し。

同じく廓噺の「明烏」もそうですね。
「あなたがた、帰れるもんなら帰ってごらんなさい。大門で止められる」
というサゲもまた、見事なものではある。
私はこのサゲ自体「逆さ落ち」だと思う。だが、やはりここは噺の肝ではない。
最重要シーンは、若旦那がすっかり吉原にハマった朝の場面である。
こちらが錦の袈裟同様、「逆さ」っぽいのだ。
明烏の場合、形式的なサゲが逆さ落ちに分類されることとは関係なく、その直前に逆さ落ち的な場面がある。

この、「殿さま与太郎」「吉原大好き若旦那」の場面を形容する言葉が、現状ないのである。
「サゲ」みたいな名前を付けてやりたい。
とりあえず便宜上、上記では「肝」ということばを与えてみた。

つまりこれが今回のテーマ。
「サゲより大事なもの? もちろんあるよ。人情じゃないかな」と思われた方もいたでしょうが、そういう深いテーマではなくて形式寄りの話。
落語の一席には、サゲより前に劇的な、最重要シーンがあることが多いですよということ。

よく考えると、映画や小説、マンガでは、ちゃんとこの「肝」に該当するシーンに言葉が与えられている。
「クライマックス」という。ラストシーンとイコールであることのほうが少ない。
だが、ずっと「サゲ」が最重要だと誤認されてきた落語においては、「クライマックス」ではピタッとハマらないのです。

「肝」だと、「テーマ」という意味にも取れるので、もう少し考える。
「頂点」でもいいかな。固いな。和語にすると「いただき」。
「噺のいただき」。悪くはないと思うのだけど。

ちょっと数日、この「いただき」を探してみようと思うのです。
これが確立したら、分類してみるのもいい。いや、生産性があるかどうかは知らないが、楽しそう。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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