両国寄席6 その4(三遊亭竜楽「浜野矩随」上)

両国寄席は、基本的に色物さんはヒザのひと組。
この日は、芸協の寄席に出ているスティファニー。
芸協の寄席にもっと行かなきゃと思いつつなかなか行っていない私、お見かけするのは初めて。
スティファニーという看板は、太神楽でいう「社中」みたいなものである。この日実際に、舞台に上がるのは小泉ポロン先生。
美人で華やかで、「ホーホッホッホ」と高らかに笑うだけでギャグになって盛り上がる、実に楽しいマジック。
演者と客の距離の近い両国で観るのもとても不思議な雰囲気。
マジックの締めは、マジシャン専用のプロショップで売られているマジックのうち、役に立たないものの紹介。

前座を含めても3時間弱の両国寄席、あっという間にトリである。
三遊亭竜楽師は、さらっと令和なぞかけを披露して、直ちに本編へ。
竜楽師は本来、海外公演を主にした、楽しいマクラを豊富に持つ師匠。
その師匠がマクラを振らずに入るということは、大作である。なんの噺だろう。
名工浜野矩安(はまののりやす)が出てくる。あ、「浜野矩随」(はまののりゆき)だ。人情噺の大作。

師匠・先代圓楽の得意演目。圓楽のものは聴いたことがないが。
竜楽師、滑稽噺もすばらしい人だが、私は師の人情噺がさらに好きだ。
滑稽噺が上手いことと、人情噺が上手いこととは、真逆のスキルなどではない。
語りの達人ならば、爆笑から号泣まで、人間のあらゆる感情をすべて掘り起こしてしまうのである。
聴き手の魂を揺すぶる点においては、喜怒哀楽の感情に差はない。
聴き手のどんな感情をも揺り動かす竜楽師、爆笑噺と、笑い控えめの噺との間に、まったく断絶はない。

先日、「中村仲蔵」が好きだという小泉進次郎をdisるデイリー新潮に怒りを覚え、それを記事にした。
進次郎のためには怒らなくても、落語の無粋な扱い方については怒ってもいい。
人情噺のなにがわかっているのだ貴様。
三遊亭圓朝の頃なら、トリの師匠は人情噺と決まっていた。現在では、確かに滑稽噺のほうが格上の扱いになっている。
それは別にいい。だが談志の「業の肯定」を引っ張ってきて、それを根拠に人情噺を貶め、人情噺が好きだというひとりの落語ファンを貶める神経がわからない。
見事な落語は、聴き手の魂を揺すぶるもの。揺すぶりかたの手段はいろいろだ。
そもそも、滑稽噺が不得手で人情噺に逃げている人がいれば、滑稽噺を掛けろという批判も成り立つかもしれないが、竜楽師も含めてそんな噺家はいません。

浜野矩随は、私は確か中学生のときに、深夜の放送を録画した志ん朝のものを、テープが傷んでいてぶつ切りの再生だったが、にもかかわらず思わず聴き入ったことがある。
志ん朝は、なんでこの噺が喜ばれるのかねと語っていたようだが、もちろん照れもあるのだろう。
そう語る、つまり滑稽噺のほうがやりがいものあるというのもわかるし、いっぽうで人情噺に対する照れもわかる。

続きます。

作成者: でっち定吉

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