両国寄席6 その5(三遊亭竜楽「浜野矩随」下)

両国寄席主任の三遊亭竜楽師は、人情噺の対策「浜野矩随」。
父亡き後、職人としてまったく目が出ない矩随。
適当な仕事で、唯一の味方である骨董屋の若狭屋を激怒させ、出入り止めになり、あげく死んでしまえとののしられる矩随。

いささかつらい場面。私のように、サラリーマン時代にしくじりの多かった人間にはなおさらだ。
落語を聴いて、心中のパーソナルな部分にあるスイッチが押されてしまい、楽しめなくなることが、ごくまれにある。
だが、非常につらい場面にもかかわらず、私のスイッチは入らない。
竜楽師が、リアリティを持った迫真の語りを繰り広げながら、徹底的に押すことをしないからのようである。
職人にとってつらい場面であり、しかもそう言われることに十分な理由があるのだということが客に伝われば、それでいいのである。客をまで、つらい気持ちにさせる必要はまったくない。
林家正雀師など、生々しさとは無縁の語り口の人なら、こういう押さない描き方が上手い。
だが、竜楽師は正雀師よりずっとリアリティを重視している。演技力も圧倒的に高い。
しかしながら、最後の一線は越えないのである。

迫真の語りに引き込まれ、物音の一切しない、とても静かな客席。

ほぼ冒頭から笑いがない、人の生き死にの掛かった、張り詰めたシーンが続く。だが、そこにきちんとついていくなかなかいい客。
きっちりついていった客には、ご褒美として笑えるシーンが少々ある。
だが、前半の緊迫を笑いで回収するタイプの噺ではない。
そしてまだ、母が自害する悲劇は迎えていない。

肉親の死は大いなる悲劇に映るが、しかしそれでお涙頂戴ではない。竜楽師のものは特に。
死の原因を作った若狭屋が、自省するどころか、観音様に願を掛けた母を褒めたたえてすらいるではないか。
そして、それでいいのだ。母親は息子のため満足して死んでいったのだから。
悲劇の裏にある、喜劇としての骨格までが浮かんでくる。

もちろん、こうした世界観を受け入れられない人がいても仕方ないと思う。
先日の小泉進次郎の記事の際、私は「芝浜」「文七元結」と並び、価値観が少々古い噺の代表としてこの浜野矩随にちょっと触れた。
だが、根底にある情感は不変。現代人にも強く訴えかけるものなのだ。
落語とは、現代を語るもの。古典落語だってそう。

矩随の懸命に彫り上げた観音様は、若狭屋をして父・矩安の遺品と誤認せしめる。
だが、冷静によくよく見れば、実はまったくタッチが違う。まさに矩随の作品。だが、父と同じ魂がこもっている。
これは、まさに落語と同じ世界ではないか。
師匠と似ていない弟子の芸の中に、師匠と同じ完成を感じることがある。伝承芸の見事さ。

幕が締まっても拍手がしばし鳴りやまないのでありました。
ブラボー竜楽師。両国ブラボー。
そして今年こそ竜楽師、「落語研究会」でその高座がオンエアされますように。

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おまけ。両国橋の「ももんじ屋」店頭。3頭ぶら下がっているのは初めて見ました。
船徳/浜野矩随/一文笛/ねずみ

作成者: でっち定吉

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