池袋演芸場3(柳家さん喬「幾代餅」)

先月末、とある日の平日、池袋演芸場の下席に行ってきました。
池袋の下席昼は、少々特殊である。

  • 安い 2千円
  • 始まりが遅い 午後2時から
  • 夜席は特別番組なので、昼夜入れ替え。
  • 毎回、落語協会の席

今回は、小4の息子を連れていった。
鈴本の「親子寄席」「早朝寄席」に連れていったことはあるのだけど、まともな寄席デビューです。
一晩落語をつけっぱなしにして寝ている、親父と同じ落語好きなので、短い時間なら大丈夫だろうと思った次第。
子供千円で、親子併せて3千円。なんたる安い娯楽でしょうか。
息子は、狭い池袋演芸場を見て驚いてました。

トリはさん喬師匠。この方は、前回までご紹介した芸談でも触れられているように、きっちり作り込まずに高座に上がる方である。
噺家さんは、ネタ帳を見てから、その日出たネタとツかない演目を掛けるわけだが、そうはいっても、掛けたい噺をある程度絞り込んではいるそうだ。
さん喬師は、本当に出たとこ勝負の人らしい。一度、高座に上がってからネタ帳広げて、今から掛ける演目を考えている姿を見たことがある。このときは「徳ちゃん」でした。
この日は梅雨明け直後で暑かったので、「千両みかん」でも出るだろうかと予想していた。

で、さん喬師が、高座からうちの坊主を見て言ってくださるのだ。「坊や、落語好き?」とか「噺家になっちゃダメだよ」とか。息子も話しかけられて喜んでました。
続けて、
「夏休みになりますと、お子さんがこうして寄席に来てくださいます。ちょっと具合が悪いのは、お子さんがいますと、掛ける演目が絞られてきてしまうんですね。廓噺などはだいたいダメで、それでみんな『初天神』をやってお茶を濁したりするわけです。そんなわけで今日はひとつ、廓噺を」
と言って、「幾代餅」に入っていきました。

子供を連れていくと、寄席の噺の内容が変わってしまう、というのは確かにあって多少気は遣う。
とはいえ、これは寄席の配慮なのだ。目の見えない方が来られたら、「景清」や「犬の目」はやらない。だから遠慮し過ぎてもいけない。寄席は気持ちよく過ごしていただく場所だから。
このあたり、胡麻化さずに言葉ひとつで解消してしまうさん喬師、素晴らしいですね。
「幾代餅」はラブファンタジーであって濡れ場があるわけでもなく、決して子供に聴かせられない噺ではないと思う。配慮し過ぎるのもどうでしょうか。
そもそも、子供に聴かせたらいけない噺ってそんなにあるのですかね。快楽亭ブラック師の落語だったら私も考えるけど。

寄席は生で聴かなきゃわからないと言う。
今回はそれを痛感しましたです。柳家さん喬師の噺は、耳も目もフル活用して、その空間を丸ごと捉えなければわかったことにならない。所作のまあ、綺麗なこと。
日によっての出来の良し悪しはもちろんあるだろうが、この日の「幾代餅」はかなりよかったのではないか。

子供がいても、断ったうえで廓噺を掛けるさん喬師。
You Tubeで古今亭菊之丞師の「景清」を聴いていたら、さん喬師に触れたマクラが出てきた。菊之丞師のマクラは面白いですね。
「寄席では、体の不自由な人が来られたら、関係する噺は掛けないことになっています。ある日、目の見えない方の団体さんがいらっしゃった。さん喬師は高座に上がって第一声『目の悪いお客様に申し上げます。私はいい男でございます』。場内は爆笑でした」
実話だと思うけどこれはすごいね。配慮は大切だが、もっと大事なのは本質をきちんとお客に見せることだ。
捨て身のサービスは、ときにお客のハートをわしづかみにする。
目の見えない方たちも、四感を駆使して高座をとらえていただきたいものである。
「幾代餅」だって、その本質は子どもに有害なものではない。うちの息子も感じ入った様子であった。

柳家小せん「犬の目」

この日の池袋は本当に素晴らしく、実にいい日を息子に聴かせてやれた。
ヒザ前の柳家小せん師もよかった。若いのに枯れた芸風の人だという印象を持っていたが、これが絶妙のヒザ前であった。
本来は入船亭扇辰師のポジションなのだけど、今日は扇辰師の夜の都合であろう、出番が入れ替わっていた。
当ブログでも繰り返しご紹介しているが、寄席には様々な掟がある。トリに向かって、様々なポジションの噺家さんや色物さんが、自分に求められる仕事をして盛り上げていくのが寄席というところ。
4番バッターの前に、着実にランナーを溜めているときに、送りバントを求められるヒザ前が一発狙いでは話にならない。
ただ、そうはいっても一般的には非常にわかりにくい感覚だと思う。笑福亭鶴光師も言うように、上方の噺家さんだってわかっていないそうだから、素人にどういうことかわからなくても無理はない。
特に、「ウケさせすぎてはいけない」という掟など、なんのこっちゃと思うのが当然かもしれない。
この日の小せん師の「犬の目」が、まさにこれがヒザ前だ、という仕事であった。サラっとした味わいだが、実に楽しい。楽しいが疲れない。
大事なことは、笑わせることではなくて、まず楽しませること。
ヒザ前というと、しばしば漫談をやる出番だ。まあ、漫談ならお客を疲れさせずに楽しませるという結果は得られるだろうけど、方法論はそれだけではない。

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柳家小せん師の見事なヒザ前芸について感服したところである。いや、感服し過ぎてしまうと、ヒザ前に求められる役割からいって、かえっていけない気もするのだけど。
「あの2番バッター、いつも確実に送りバントを決めるね」という程度の感嘆ならいいかと思う。

トリの前にウケすぎてはいけない、というのは、芸人さんによっては結構キツいハードルに違いない。ウケたくて芸人やっているのだから、そりゃそうだ。
一度上野広小路亭に、瀧川鯉昇師(トリではない)を聴きに行った際、その直前に漫談の人が出てきた。関西でかつて(それほど売れてはいない)漫才コンビを組んでいた人である。
この人が、狭い広小路亭をそれはガンガン沸かせた。あまり面白くなかった漫才時代を少々知っている私も、かなりびっくりした。
そのあとに上がった鯉昇師、あの空気を変える達人にしてからが、それはそれはやりづらそうであった。
今、この漫談家は芸協の色物に名を連ねてはいない。残念に思うが、東京の寄席には合わなかったのだろう。

ただ、「ウケさせる」こと自体が悪だというほど野暮なものではなくて、違う空気にしてしまうことがNGなんだと思う。
噺家だと、三遊亭歌之介師匠みたいに大いに沸かせる人も、決して寄席で空気を乱したりはしない。ウケさせておいて、「母のアンカ」でほろっとさせるところがうまいのだ。
色物だと、「のいるこいる」などもそうだろうか。今、のいる師匠は出ていないが、以前のコンビ全盛期は、それはウケていた。
私もこの漫才をお目当てに出かけたものだが、決してあとの師匠がやりづらいということはなかったと思う。

柳亭小燕枝「壺算」

ガンガン沸かせる人でなく、水のような味わいの噺家さんは、もともと寄席に合いやすいとは思う。
この日は、柳亭小燕枝師匠がそうだった。浅い出番であったが、これも一種のヒザ前芸だと思う。
引く芸ではなく、どこまでも突出しない、ほどのよい芸である。疲れないし、ずっと聴いていたくなる。
この日は「壺算」だったが、なまじウケどころが用意されているがゆえに、若い噺家さんが誘惑に駆られやすそうな噺だ。
でも、小燕枝師は押さない。淡々と進めていく。聴き手の神経に触る部分は一切ないので、どんどん楽しくなっていく。
こういう師匠がいてくれるからこそ、また寄席に行ってしまうんだなあ。

作成者: でっち定吉

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