訴えられる側の師匠・圓歌の今後、ダメージにはなるだろうが、最終的にはどうということはなかろう。
ファンが付いていれば正義、それが世間の共通認識だから。
その認識こそが、天歌さんの闘う相手だ。幸い裁判所は多数ファンの意思には従わない。
原告の天歌さんご本人が、噺家を続けられるとはまったく思わない。
師匠を訴えた第1号、快楽亭ブラ坊だって噺家は続けていない。
協会内で拾う人がいないのはもちろん、円楽党や立川流だって無理。
完全に左翼転向した立川談四楼なら弱者の味方をしてくれるのでは? いや、これが一番ダメ。師匠に逆らう奴の噺家生命は奪われてしかるべきという人だ。
仕方ない。
「協会員としてプロの噺家を続ける権利」というものは、この世に存在しないからだ。
二ツ目でドロップアウトして、師匠に付かずプロとしてやっていくことは残念ながらできない。
これをやっているのは司馬龍鳳こと三遊亭羊之助ぐらいだ。自称プロのこんなのが前例ではとてもとても。
先日、恐らく電撃破門を食らった林家扇兵衛さんも、噺家を続けたかった様子がしばらくうかがえたのだが、無理だ。
「いばらく」だって続けさせてはくれない。
天歌さんの場合、宮崎のアマチュアとしての活動まではかろうじて可能かもしれないが。ただ鹿児島のスターである師匠の名声は恐らく隣県まで轟いているからなあ。
すでに玉砕するさだめの天歌さん、それはちょっとせつない。
ただ、玉砕してもひどい師匠をこらしめたいと思う、その気持ちに共感する次第。
彼の高座は好きじゃないが、連雀亭の番頭を務めていたように、仲間うちでの人望はあったようだ。
入船亭遊京さんからも、天歌さんの楽しいマクラを聴いたし。
本人としては、自らが滅びても落語界に一石を投じたいのだろう。
でも、変わらないだろうねえ。
落語界のすべてが変わらないなんていうのではない。着実に変わってはきているのだが、最後まで暗部が残り続けるということだ。
現代の入門志願者はオチケンが多く、噺家の師匠としての評判は知っている。だからそういうところは避ける。
だからといって、了見の狂った師匠に就く人間がゼロになるわけではない。
圓歌師なんて楽しそうな師匠、つい入ってしまいそうではないか。
そして悲劇は、今後も一定数間違いなく繰り返されていく。
文楽、志ん生の時代のように、わりと気軽に師匠を替えられる時代はそれでもよかったのだが。
現代のほうが師弟関係は閉塞的なのである。
現代の師弟関係が唯一無二だと思っているファンは、それも認識が違う。
セクハラ提訴もあった落語界、一般社会と違うルールで動いているわけではない。そのことを再確認。
「師匠を裁判に引きずり出すなんてとんでもない」という関係者も多いだろう。だが、もともとまっとうな判断が働く状況では勝てないような、悪辣な行為をしている自覚がない師匠がいけない。
古い落語ファンには、「一般人が特殊な世界に入り、修業によって新たな生を受ける」というフィクションが大好きな人がいる。そんなのはもはや通用しない。
そもそも、修業で新たな生を受けた噺家など、昔も今もいたためしはない。いるなら例を挙げてみろ。
まちがいなく言えるのは、弟子をダメにしていくダメ師匠が昔も今もいるということ。
圓歌師、高座は立派だが弟子の育成はまるでダメ。先代が草葉の陰で泣いてるよ。
弟子だったら人間扱いしなくていい、むしろしないほうがいいと思っているのだろう。天歌さんはもう二ツ目でも上のほうなのに。
圓歌師のひどさを具体的に知っているわけでない。それは断っておく。
それでも、このたび事務所をクビになったゲス俳優、木下ほうかみたいな人格面のいびつさを感じるのである。
女優をおもちゃにするという、木下ほうかを突き動かした卑劣な衝動は、ありあまる性欲にあるわけではないと思っている。
人を支配したいというゆがんだ欲望のほうに正体がある。きっと。
ナベプロ大澤剛が男性アイドルをもてあそんでいた事件の際、世間は単に気持ち悪がっていたと思う。
だがあれもまた、性欲よりもやはり支配欲が勝っていたのだと思う。
圓歌師にも、確実にいびつな、弟子を支配する欲望がある。私はそう想像している。
ちなみに小三治にも、志ん輔にも同じ欲望がある。こういう人たちは現代では破綻間違いないので弟子は採らないほうがいい。
それでもなお、無知な子羊が来てしまうのだけど。
圓歌師、高座で自身のお子さんの話をいまでもよくしている。もうおふたりとも成人していると思うが。
「母のアンカ」で描かれる、ご自身のさみしい幼少時代を克服し、幸せな家庭を築いた。そう思っていた。
だがこんな事件があると、家庭だって実のところどうなんだろうと思う。
仮に家庭が本当に平和であったなら、それは弟子の犠牲の上に成り立っているのではないだろうか。
事件の大団円のためには、圓歌師自身がカウンセリングを受け、自分の中のゆがんだ衝動に真摯に向かい合う、そこまでおすすめしたい。