喬太郎師の高座の模様を書いた3月31日、当ブログの特定記事のアクセスが急に伸び出した。
いつもより多めの、喬太郎師のアクセスに匹敵する伸びだ。
私は最近落語界の動きを、自分のブログのアクセス急増で知ることが多い。なにかあったらしい。
1日の訪問者350程度の当ブログが、500を超えた。
「師匠と惣領弟子の緊張関係」の、それも「下」である。
この記事へはもともと、「三遊亭遊雀 破門」の検索訪問が多かったのだが、今回は違う様子。
5ちゃんねるまで調べて、ようやく事実が判明。
三遊亭天歌さんが、落語協会と、そしてまだ明確にはしていないが師匠・圓歌に対して法的措置を講じるそうである。
相手が師匠以外の誰かだとは考えられない。単なる先輩は、偉そうにしたところでなにかを強要する権利なんて持っていないからだ。
「破門を盾にして謝罪を強要する」(引用)ことができるのも師匠だけ。
それに天歌さん、師匠が相手の闘いだとブログの読み手が判断しても、構わないという意思だ。
ごく普通には民事で争うところ。
5ちゃんねるの落語協会スレッドには、ご丁寧に「丁稚ブログがどう取り扱うか注目だな」なんて書いてある。
週刊女性扱いだな。常に高尚なブログを目指しているのに。
しかし実際、当ブログ内の「天歌」検索でたどり着いた方がいて、それでアクセスが増えたようだ。
落語のスキャンダル記事はまず定吉に、そんな流れができたらしい。やや不本意ですが。
検索でのご来場もあったようだが、「三遊亭天歌 パワハラ」で調べるとタイミングによっては円楽パワハラの記事のほうがひっかかり、そちらのアクセスも増えていた。
私のブログの当該記事では、師匠・圓歌のほうを軽く批判している。
批判しておいてよかったな。見事な伏線となったではないか。
この記事が、天歌さんを焚きつける材料のひとつになっていなけりゃいいのだが。
さて、天歌さんのブログ。
状況が状況だから消えるかもしれないけれど。
宣戦布告。
圓歌師は売れっ子である。世間の人が一体なにで喜ぶかつぶさに観察し続け、高座に活かしてきた人。
かつての漫談のタイトルが「B型人間」だったのにも関わらず、今は血液型ネタは封印している。
血液型の話題がコンプライアンス上よろしくないことをわきまえているのだと思う。いまだにこれで食っている新山真理とは違う。
そんな圓歌師の高座にはずっと敬意を払ってきたし、襲名披露にも行った。
当ブログでも繰り返しいいほうに言及している。
いっぽう、弟子である天歌さんの高座は、ちっとも好きじゃない。
過去4回聴いて、1勝3敗である。
1勝は、黒門亭で聴いた「無限しりとり」。この代表作らしい新作落語だけは、実によかった。
3敗のうち、ピンと来ない新作がふたつ。あと1席は、神田連雀亭で聴いた古典落語の宮戸川。
宮戸川は私の大好きな噺で、これをひどく蹂躙されたと感じたものである。ブログでは天歌さんの名前を出さなかった。
それ以来、避けるようになったのが正直なところ。
大好きな師匠と、避けている弟子。
こういう状況では、師匠を擁護したくなるのが人間というもの。
だが、でっち定吉はそういう男ではないのです。理屈が最優先。
自分の感性すら、理屈に合わせて変えていきます。
好きなほうを正義に置いてのスタートはズルいのだ。小三治の師弟関係において、この手の卑怯なコメントをいくつ見たことか。
私の好きな師匠のほうが失墜してもいいので、どんどんやってください。そう本心から思っている。
最終的には実力の世界だから、師匠、それほど失墜しないでしょうがね。
愛人をボコボコにした極悪非道の桂春蝶だって活動できているわけだし。
一方当事者だけの告発を信用するなんてバカじゃないかって?
12年やってきて、あともう数年の辛抱で真打なのに怒っているという時点で、信用に値すると思ってます。
圓歌師が怒りっぽく、数いた弟子の育成を完遂できていない前提も働く。
小ごと、小かじ、扇兵衛、愛九、乃ゝ香などさまざまな人が過去の当ブログを賑やかにしてきた。
師弟関係が揉めたときにでっち定吉がどちらの味方をするか、そのルールがわからない方もおいでかも。
ルールは簡単で、これだけだ。
- パワハラ(もちろんセクハラも)はダメ
- 人格否定する師匠はダメ師匠
- 落語界だから許される暴力など存在しない
- なぜ辞めたのかわからない人については、実力でもって残念かどうかを判断
筆が尽きないので続きます。
(2024/9/9追記)
4回聴いて1勝3敗と書いたが、実は5回聴いて2勝3敗でした。
ただ当時、実力に関しては決していい印象でなかったのは確かです。