一席終えた後で「長命という噺です」と語っていたので今日のタイトルは長命にする。
芸協ではこの表記が多いが、でもタグはよく使う短命で付けておく。
長命のほうが縁起がいいわけだ。長命にしておけば、披露目でも出せる噺。
人が死ぬ噺を披露目に出して本当にいいのかわからないが、現に円楽党で聴いたことがある。
短命といえば歌丸師だよなあと。
実際終えたあとで喜太郎さん、歌春師から教わった歌丸師のネタですとも語る。
もっとも演出は同じ噺とは思えないぐらい違うのであるが。
喜太郎さんの「長命」はこんな一席。
- いきなり八っつぁんが隠居に、「どういうわけなんすかね」と迫っている場面から開始
- 隠居も結構ファンキーで芝居っ気たっぷり
- 木の枝からおまんまよそうのを覗いていたくだりはカット
- 隠居がシャレではあるが、八っつぁんのおかみさんを結構disっている
- 家に帰ると、かみさんは立膝でたばこをふかし、なぜか怖い顔
短命は一般的には、クスクスさせる噺。語る側も聴く側もそれをよしとする。
だが、たまにだが大爆発する要素も持っている。
喜太郎さんは最初から爆笑狙いの一席にしている。なのに、一之輔師あたりの面白落語と、流れる空気がまるで違うから不思議だ。
ギャグも多いのに、噺が壊れていない。壊すつもりもなさそう。
そして、妙に品がいいから不思議だ。
露骨なエロはなく、エロを楽しめる大人の理知的な噺。
喜太郎さんの長命とても楽しいのだが、その楽しさがどこにあるのか、しばらく考えてしまう。
考えた結果、わかった。
流行りの面白古典落語というものは、「世界観を揺るがす」「クスグリに命を懸ける」とおおむねふたつの方法論だ。
いずれにしても、古典落語の基本を崩してくることで、笑いを得る。基本がわかっていない人には伝わりづらい欠点もある。
喜太郎さんは方法論が違う。
「新たな古典落語の体系」を自力でこしらえてしまうのだ。
喜太郎さんが自分で作った体系は、落語ファンが知っている既存の体系から3Dのように浮き上がっている。
この立体加減が楽しいが、噺を聴いているのは既存の体系を刻み込んでいる人だけでない。
噺を知らない人も半分はいる。
そういう人には、できあがった体系の噺としての楽しさが、しっかり伝わる。
この、構造のタフさが、独特の品の良さにつながるのだろう。
喜太郎さん、作り上げた体系そのものは崩していないのである。崩さないからなにも失わない。
「隠居が芝居っ気たっぷりに、夫婦二人っきりの様子を描写して、『短命だよ』と落とす」「動物的なかみさんが立て膝でキセルをくわえている」そんな世界においては、これこそがスタンダードなのだ。
新作落語で鍛えた創作力が、古典落語を新たなステージに引き上げている。
A太郎師もそうだし、桃太郎一門らしいな。
隠居がストンと「短命だよ」と語るのだって、ちょっとくどめだが古典の手法である。
喜太郎さん、若手大喜利などで見せていた与太郎イメージと異なり、滑舌はいいほう。
ユニークで親しみやすい風貌の喜太郎さんだが、意外なものを発見。
怖いかみさんを演じるときに怖い顔をするのだが、この眉を吊り上げた顔が中村獅童に似ている。驚いた。
一席終えた喜太郎さん、すぐに立ち上がらず、お子さんがいたら出せませんからね。
家帰ってから、なんで短命なの?って訊かれたら親御さん困りますからね。
だが、私は別のことを考えた。
この噺を学校寄席で出したら、子供たちそれはそれは爆笑だろうなと。先生は困るけど。
先に理知的な噺だと書いた点と、矛盾はしない。
意味なんかわからなくていいのだ。バカな大人が、なんだか楽しい世界を作り上げていれば、子供は恐らく大笑いする。
そして喜太郎さんにはそれができる。
そんな楽しい一席でした。
この日はもう一席も「紺屋高尾」だから、古典のみ。
新作派の喜太郎さんから古典落語は、「宮戸川」しか聴いたことがなかった。堀之内寄席で聴いたこの宮戸川はすばらしいものだったが。
喜太郎さんは、最終的に勝負のフィールドは古典落語のほうがよさそうだなと今回思った。
もちろん、新作の経験は無駄どころか大事なステップ。
5年後の披露目の際には、古典の大ネタラインナップがずらり並んでいるように思う。
三遊亭萬橘師みたいなイメージだろうか。