伊勢佐木木曜寄席2(瀧川鯉橋「妾馬」)

無料落語愛好家の丁稚定吉です。
しばらくブログのネタが溢れていたため、ちょっと以前の伊勢佐木木曜寄席である。謝楽祭よりも前のこと。
息子が不在なので、これ幸いと夜席の両国に行くつもりでいた日。
午前中に仕事が落ち着いてしまい、その前に横浜・伊勢佐木町に出向く。
結局、ここだけ行って夜の両国(主任・朝橘)はやめてしまった。横浜と両国とでは、はしごをしても電車の運賃は安くならないし。
伊勢佐木木曜寄席は毎週やっている無料の落語会。芸協のメンバーが顔付けされる。
「東京かわら版」には掲載されない。
関内はうちからわりと近いのだが、都内に出向くのと比べると交通費が若干余計に掛かる。
会場はJRAのエクセル伊勢佐木の1階。13時開演だが、12時過ぎに行くと、もうだいぶ席が取られている。私も荷物を置いてから食事してきた。
立ち見も出る。大盛況でいいですね。

前回は二ツ目ふたりの席に来た。今回は真打ふたりである。
といっても、真打のほうが二ツ目よりいいとは限らない。この日は、ふたりの真打のうち瀧川鯉橋師だけ目当て。
もうひとりの師匠には期待しないで来た。
嬉しい誤算があったらよかったのだが、案の定の残念な高座。
寄席好きでも、芸術協会の席には行かず、落語協会しか行かない人は結構多いみたいだ。
私は別に芸協嫌いではない。好きな噺家さんも大勢いる。だが落語協会の席にしか行きたくないファンの感覚は、わからないではない。
このブログで、噺家の名前を出さず高座の残念ぶりを取り上げることがたまにあるが、その対象は、残念なことにおおむね芸協の噺家である。
その、残念な芸協の噺家たちには、わかりやすい残念な共通点がある。「自虐マクラ」が大好きということ。
古今亭今輔師のように自虐の楽しい人もいるから絶対ではないけども、残念な噺家はだいたい自虐マクラに走り、客をわざわざいたたまれなくさせる。
まあ、この日の残念な師匠は、過去取り上げた人たちと比較すると、聴いていたたまれなくなるほどではない。
自虐は入れるけど、スベリ受けを狙わないだけ、まだましだ。
でもつまらない。
古典落語の世界観を構築できていないまま、ギャグをたくさん入れてくるところが残念たるゆえん。
実は、そこそこ受けていた自虐マクラ(なにしろ、亭号を間違って紹介されていた)も含め、噺の中盤までは思いのほか悪くはないなと思って聴いていた。だが後半、続けざまにギャグを入れてきたところで脱落。

今回の残念な噺家さんの残念な実例。千両みかんのクスグリで、やっと手に入れた1個のみかんを若旦那に与えるシーン。
「若旦那、すぐ食べるんですか。インスタグラムにアップしたりとかしなくていいんですか」
当たり前の話だが、江戸時代の噺にインスタはそぐわない。そぐわないからこそ笑いにもなるし、反対にだだスベリもする。
スベッたとは言わないまでも、客に違和感を与えるだけのクスグリ。
白酒、一之輔といった師匠の面白古典は誰にでもできるわけではないと改めて実感する。
だからといって、この噺家さんがギャグ入れずにさらっとやったとする。今度は、それはそれで間が持たず、やっぱりコケそうに思う。
たぶん、オリジナルのクスグリというのは噺家さんにとって「演出を努力してみました」というしるしなのだ。
方向性の間違った努力だと思うけど。
落語って、話芸って難しいよなあ。
ギャグを入れずに淡々と語れる師匠が落語協会には数多くいるが、それもまた、修業と才能の産物なのだ。
まあ、そうしたことをずっと考え続けていたので、つまらない落語にも効能がある。これは本気でそう思った。
30分持ち時間あるから、効能ぐらいないと辛い。
タダで聴いてる奴が偉そうなこと言うなって? そうですね。

瀧川鯉橋「妾馬」

目当ての瀧川鯉橋師について。
この日から、池袋夜席の主任(5日間)も務めている。
鯉橋師は、メガネ掛けて高座を務める印象を持っていたが、メガネなし。
昨年のこどもの日に、池袋で「時そば」を聴いて以来である。時そばなのに、サゲまでやらない師匠譲りのバージョンに感銘を受けた。

会場のJRA・エクセル伊勢佐木1階にはプロントが入っているが、このテラス席は落語をやっているロビー内にある。
そこで大声で話しているおばさんたちの声が入ってちょっとうるさかった。なにも、わざわざそこに座らなくてもいいのになあと思う。

鯉橋師、まずは嘘つきマクラから。
噺家は儲からない。浅草のそばにアパートを借りている鯉橋師、夏をしのぐアイテムはうちわしかない。扇子は商売道具だから使わない。
そのアパートに噺家仲間が遊びに来て、お前ん家暑いなとうちわを奪い合う。これがうちわ揉め。
なので、師匠の扇風機をおさがりで狙っている。
この扇風機が、実は師匠・瀧川鯉昇が自身のマクラで振っているアイテムなのだ。潰れた工場からもらったもので、首が回らない。
なんと、世にも珍しい、師匠とのマクラコラボだ。思わず感激。
師匠を出さずに、すべて自分のこととして語ったっていいのに、あえて師匠を持ってくるところが鯉橋師は面白い。この一門が面白いのか。
鯉橋師は、鯉昇師ほどふわふわしていない。意外とかっちりしているのだが、このマクラに見られるように、師匠のネタを別の持ち味で語れる人。

そして、「カタカナのトの字の線の引きようで、上になったり下になったり」の川柳から、江戸時代の身分について。
侍が出てくるので、季節的に目黒のさんまでもやるのかと思った。だが、「妾馬」(八五郎出世)だ。
この噺は、鯉昇師はやらないと思う。
トリネタである。芸協の師匠からは初めて聴いた。
最近も、古今亭菊之丞師の「妾馬」を鈴本で聴いたが、この型が私の中ではスタンダード。だが、落語協会の師匠からよく聴くものと、鯉橋師とでは結構スタイルが違う。

どこから来ている妾馬かよくわからないのだが、なんとなく古い型なのだろうと思わせる。
この八五郎は、博打帰りではない。だから与太郎の登場シーンもない。
また、この八っつぁんは裸足で大家のうちに来るわけでもない。なのでわりと常識的かと思うと、ふんどしは締めてない。
きゅうくつ袋(袴)を履く描写が細かい。八っつぁんは一度も履いたことないんだから、当然といえば当然。
田中三太夫さんは田舎侍で、言葉の端々が訛っている。その分、そんなに四角四面の人物造型ではない。
その前に登場する門番もまた、国から出てきたらしく著しく訛っている。八っつぁんが日本人か? と驚くほど訛っていて、八っつぁんはまったくなにを言っているのか理解できない。
八五郎が、大家から借りて履いてきた下駄の心配をするシーンはない。
お目録は「おもこもこ」。
八っつぁんが期待するお目録は五十両。二本差しに取り立ててもらえればいちばんいいのだが、そうならなかったときの押さえの値段が五十両ということだ。
ほろりと来るシーンは極めて薄い。もともと妾馬の原型、人情噺ではない骨格がよくわかる。
もともと「妾馬」という変なタイトルも、もうやることのないこの先のエピソードから来ている。

これらの違いのおかげでムードはだいぶ異なるが、それ以外のストーリー展開はだいたい一緒。
ただ、ほろりのシーンも薄いだけ、ちょっとつるんとした印象。
もっともあくまでも噺についての印象で、語る鯉橋師についてつるんという印象は受けない。
なるほど、古いであろうこのスタイルに、たくさんギャグとほろっとするシーンを加えてきたのが、落語協会のスタイルなのだろう。
鯉橋師がいいのは、どんな状況でも、八五郎の肚が座っている点。
殿様の前でも堂々としていられるのは、肚の中に本当になにもないから。
決して殿様やさむらいをなめてかかっているわけも、なにか企んでいるわけでもない。ちゃんと、敬意も払っている。

楽しい八っつぁんを語る鯉橋師のおかげで満足しました。
2度目の来訪でこの落語会の作法を覚えたので、隣の人の分までパイプ椅子を片付けてから帰りました。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。