最近の日曜は出かけていることが多くて、地上波笑点はあまり観ていない。
特大号のほうを録画している。市馬会長の回や、南光師の前半はようやく観終えた。鶴光師や竹丸師はまだだ。
喬太郎師の高座で様子の一端を聴いた、おきゃんでぃーずの解散コンサートの模様も流れた。
そんな状況だが、立川志らく師が出た日曜の笑点、久々にリアルタイムで観ました。
実に久々に、この嫌いであって軽蔑もしている噺家に敬称を付けてみた。
今回に関しては、付けないと変かなと。
志らく師が、落語界のご意見番のようなふるまいをしているとなるとおいおいと思う。
だが今回、落語界の中枢にある笑点に出てきたのだ。落語界の権威を受け入れたのだ。
それは批判できないじゃないか。
いや、出て欲しい人かと言われたら、決してそうじゃないけども。
落語好きの中には、「笑点を落語と思われたら困る」と、かつての志らくと同じ立場を取る人がまだまだ多い。
当ブログでは、そういった意見が、いかに心棒が狂った矛盾に満ちたものかを再々述べている。
最近落語を覚えて夢中になっている人と、30年前の笑点に嫌悪感を持っていたお年寄りに、このタイプが多いのではないかな。
笑点メンバーは落語の上手い人たちであり、スターであり、弟子の育成も達者な人なのである。
そうでない時代もあったようには思うが、少なくとも今の笑点はそう。
まあ、いっぽうで休養中の円楽師について私が最近批判を続けているのも確か。だが、別に笑点に対する基本的なスタンスを変えたわけじゃない。
円楽師も、弟子の育成は悪くはない。落語をやらない息子のことはともかく。
そんな笑点に、志らく師がひれ伏したのだ。
その行為を受け入れないわけにはいかない。
落語界は、イメージと違いひとりで活動することはできない。当然、孤立した噺家はダメなのだ。
笑点寄りのファンには、どうせ志らくがテレビ界での地位の安泰化を図ってるんだろうという、冷めた見方の人もいるだろう。
それは否定できない。ただ私は別にその立ち回りだって否定してきていない。
ただそのことより前に、本当に志らく師が、笑点の権威の前に改宗したのだろうと思っている。
私が笑点について、そして噺家のあるべき姿について散々書いてきたことに賛同してくださる方なら、わかるのではないでしょうか。
電車の中での、円楽師からもらったパンの話はついで。その話を語り出す際には、すでに改宗していたのだろう。
志らく師も来年は還暦。噺家人生の折り返しを迎え、思うところはもちろんあるだろう。
伯山みたいな、新たにとんがった奴も出てきたから、立ち位置にも迷う。
本業も今まで以上に厳しく見られる。談志にはついになれなかったし。
もともと可愛げがないぶん、橘家圓蔵みたいな、浮ついた年寄りとして晩年を過ごすこともできないだろうし。
笑点出場の感想も人により千差万別だが、実際の大喜利でのプレイもまた、人により見方が違うようだ。
志らくよくやったという意見から、全然ダメ、話にならないというものまで。
私も思うところを述べたっていいだろう。
正直、面白くはなかったな。完全アウェイで。
今まで円楽師の代打をしてきた師匠方だってアウェイではあるが、一歩引きつつも早めにチームに合流できる、心の強さをみな持っていた。
ダメで元々、いいムードを上手く作れれば御の字だ、ぐらいの気持ちでやると、十分にウケるのである。
改宗したとしても大きなマイナススタート。チームにすんなり混ざることはできない。
迎え入れるメンバーのほうも、志らく師に最低限の気は遣っていたものの、それほど絡んで面白いわけじゃない。結局いつものメンバー間でのチームプレイに徹することにした。
私にはその様子がとても面白かった。
南光師は大阪のラジオでもって、回答はすべて後輩の米紫師に考えてもらったとバラしていた。
志らく師は、たくさんの弟子に考えさせるのが彼らにもいいトレーニングになるはずだが、たぶんしてないだろうな。
「私が笑点の司会になったら、昇太に座布団運びをさせる」。大したネタじゃない。
しかもこれ、昇太師が司会になり三平が新メンバーになった頃、志らく師テレビの落語で続けて語っていたネタ。ただし座布団運びは談春だとして。
当時、近接した放送予定のすべてで同じネタを使っていたのにも呆れたが、今回使いまわしていたのに呆れなおした。
昇太師と昔のTV番組(平成名物TV ヨタロー)で一緒に遊んでいたと古いつきあいを語っていたけど、この人昇太師の結婚式に呼ばれてないからね。
親友の志の輔師は呼ばれていても。
今回は、笑点の制作側が大いに名を上げたと思う。
なにしろ、天敵をひれ伏させたのだから。
しかも、メンバーのほうがやっぱり面白いことを知らしめたのだ。
笑点の権威もますます上がる。上がりすぎても困るけど。