このブログで日々語っている、というかつぶやいている内容は、最初から固まっているものではない。筆を進めるうちに確立してくるのである。
新作落語の「発想の飛躍」について書いているうち、落語を聴きながら、「この噺は日常からどれだけ飛躍をしているか」が気になってきてしまった。まあ、それはそれで面白いのだけど。
ともかく、「飛躍」にはそれだけで価値がある。「飛躍」だけではダメだとしても。
今日は、第10巻から<第141話 開化からくり噺 柳亭好楽>。
第10巻からは4話目の紹介だ。
帝都大の文化講演会の前に、落語をネタおろしで出して欲しいと頼まれた3人の若手。
その話が「臓腑違い」「水中の球」「おうむ徳利」の3つ。どんな噺かというと。
- 臓腑違い
相撲取りと芸者、それぞれ医者のところで、悪くなった内臓を取り出し綺麗にして戻す施術を受ける。医者が間違えて戻してしまい、相撲取りはナヨナヨして裸が恥ずかしくなってしまい、芸者は床柱で突っ張りをし、座敷で三味線を折り、お客を投げ飛ばす。
- 水中の球
ガラス玉のようなもので海中を旅する噺。
- おうむ徳利
徳利の栓を抜いて、人の発言を徳利に詰め込む噺。芝居の台詞を中に詰め込んで栓を抜くと、
<本日はこれきりィ>
「おい、終わっちゃったじゃないか。序幕はどうした」
「序幕は徳利の底に詰まっております」
これらの噺を明治初期に捜索した噺家「柳亭好楽」は、人情噺の全盛期において、顧みられることはなかった。
この噺家が、講演を主催した帝都大教授の曾祖父だった。現代に当時の新作落語をよみがえらせたことで、先祖の名誉を回復できたのである。
どこまでがフィクションで、どこまでが史実なのかはよくわからない。
でも、「臓腑違い」という噺の存在までが、さすがにマンガにおける創作ではないだろうと思う。
「水中の球」「おうむ徳利」は、そういう落語が実在するとしてだが、「小倉船」「堪忍袋」がある以上不要でしょうか。
「臓腑違い」面白そうな噺だ。聴いてみたくなりませんか?
柳家喬太郎師が、速記から復活させたという「綿医者」と、それから古典落語「犬の目」にちょっと似ている。「綿医者」は、ダメになった内臓を全部取り出して、代わりの臓器が届くまで綿を詰めておくというナンセンスな噺。
「犬の目」も、<クルクルポン>のナンセンスな噺だが、ナンセンス過ぎて馬鹿らしいということはない。
喬太郎師ならでは「綿医者」だが、よかったら「臓腑違い」もやっていただけないだろうかと思う。
さもなくば、三遊亭歌武蔵師でも面白そう。相撲取り上がりの巨体を活かし、ナヨナヨしていただければ、これはウケるんじゃないでしょうかね。