ダシカン

ここしばらく、落語の成り立ち、発想というものについて考え続けている。そして新作落語はどう作ればよいのか。
落語をやたら分類して悦に入るのも野暮ではあり、このことは心に留めておきたい。
桂枝雀師が「サゲの分類」というものをやったが、落語界になんらかの貢献をしたとは思えないし。

ともかく、借り物のチャートを使って、落語の「登場人物」と「世界」を、「通常」と「異様」に整理してみると、多少わかりやすくなった。
中間的結論としてはこういうこと。

  • 現代に残っている古典落語の多くは、「日常の世界に異様な登場人物」「異様な世界に通常の登場人物」の組み合わせでできている。
  • 日常世界と対比させることで、「異様な世界に異様な登場人物」の組み合わせも落語にすることができる。
  • 「日常の世界に通常の登場人物」の組み合わせは、後世に残りにくい。また、新作落語の場合、消えるのが早い。

しかし、上記仮説が正しいとしてだが、今度は「日常世界に通常の登場人物」を配置している古典落語が気になってきた。
なぜこれらは、現代に深く根付いているのだろうか。
「替り目」などは、SWAの(元)メンバーたちが、「新作でああいうものをこしらえたい」と語る、金字塔のような作品だ。明治の日常を描いた作品で、異様な登場人物は出てこない。

前置きが長くなりました。
今日は、古典落語の「六尺棒」について。これもまた、状況こそいささか異様だけど、日常から飛躍した噺ではない。
極めてシンプルな構成で、登場人物は「道楽息子」とその親父の2人だけ。
この2人が、直接顔を合わせずに成り立つ噺。もしかすると、この「顔を合わせない」という構成の妙で生き永らえているのかもしれないが。

あらすじはごくごく簡単。
放蕩三昧の若旦那、孝太郎が深夜にご帰還。店のものにこっそり入れてもらおうとするが応対するのは大旦那。
大旦那は息子を、「孝太郎のお友達」として対応し、孝太郎は親類協議で勘当にしたからどこへでも行けと、おことづけ願いたいという。
このうちの身代を他人にくれてやるくらいなら火をつけてやると脅す若旦那。大旦那は慌てて、六尺棒を持って若旦那に打ちかかる。
六尺棒を交わした若旦那、ぐるっと廻って親父の開けた玄関に入り込み、閉めきってしまう。
そこに大旦那が戻ってきて、中に入れろと言う。若旦那は最前のやり取りをそっくり真似して大旦那に復讐する。
「大旦那の孝右衛門は、金儲けばかりに余念がないので親類協議で勘当にした」
「親を勘当にする奴があるか」

孝太郎、放蕩息子のくせに勘当は予想外であったようで、
「出し抜けに勘当? 出し勘ですね、そりゃ」
「ダシカン」いいですね。ダシカンで成り立っている噺だと言っては言い過ぎかもしれないけど、「締め込み」の「うんでば」みたいに落語らしい素敵なフレーズだ。

***

「六尺棒」は、勘当の制度もなく、放蕩息子もそうはいない現代社会において、なおも命脈を保ち続ける不思議な噺。
くすぐりと、「間」が命の噺だ。
ひとり息子を勘当して、このうちの身代はどうすると尋ねる若旦那に、大旦那、あくまでも「孝太郎のお友達」に語っている体で、
「『そんなこと、てめえが心配する必要はない』・・・とおことづけを願います」
点点点の間が命である。

「くすぐり大事」の噺にしては、噺家さん独自のくすぐりを入れる余地に乏しい噺でもある。ムダを削いで、ストーリーが完成しきっているためだろう。

面白いけども、そんなに頻繁にかかる噺ではない。
で、思うのだが、前座さんにやらせたらまずいのだろうか。
若旦那の放蕩っぷり、大旦那の貫禄を出さねばならず、そして間が難しい。決して易しい噺ではないだろう。
でも、登場人物が2人だけ、つまり上下の切り分けが容易であって、そして基本技の「オウム返し」が入っている。前座噺の要素を十分に兼ね備えているように思うのだ。
前座といえば、ひたすら「子ほめ」「道灌」というのもどうかと思う。ネタ帳が「六尺棒」で始まる寄席があったっていいじゃないか。
この噺は何とツくのかな。「湯屋番」「船徳」「文七元結」等の若旦那ものか。
あと、親子の噺「親子酒」や「片棒」、「宗論」もできなさそうだ。うちに帰って締め出し食らう「宮戸川」もダメそう。
いっぽうで、「明烏」「崇徳院」「千両みかん」等はやって構わない気がする。この程度の影響なら、「前座の分際でやりやがって」と叱られる噺でもなさそうだ。

ちなみに、戦時中に、廓噺・艶笑噺と一緒に「はなし塚」に封印されてしまった噺のひとつ。
若旦那が吉原から帰ってきたところに廓との接点があるくらいで、この噺自体は廓噺ではない。「宮戸川」の半ちゃんみたいに、碁に夢中になって帰ってきたのだとしても、噺自体は成り立つ。
やはり、究極の親不孝ぶりが不謹慎とされたものか。「天災」「二十四孝」は封印されなかったのだけど。

***

聴き比べてみたいのだが、「六尺棒」は音源の種類が実に乏しい。
実はただのマイナーな噺で、その分特殊で、落語が現代に生きているのかどうか検討するサンプルとしては適当でなかったということかもしれません。今さらですが。
そして、誰の噺を聴いてもだいたい一緒。
やはり、前座さんに口慣らしで演じてもらうのが、噺のためにもいいのではないでしょうか。

この噺の価値はどこにあるのか。
とどのつまり、この噺は「コント」なのだと思う。
落語の登場人物は、舞台に出てきて、スポットが当てられるときだけ存在している。舞台が始まる前、終わった後の物語というものは存在しない。
これを工夫するのが演出。噺を膨らませる場合には、舞台で見えないレベルの工夫をしておく。
「長屋の花見」で、つまらない花見にみなぞろぞろ出かけていくのは、「もしかすると」を期待しているから。そんなことはいちいち口に出さないものの、話し手だけは腹に持っておくとか。
しかし、「六尺棒」については、シンプルこそ極上。
若旦那にも、大旦那にも、物語を離れた背景は不要だ。あると邪魔になる。ふたりの登場人物は、いきなり舞台に現れ消えていくだけなのだから。
たとえば若旦那が「あの親父にも優しいところがある。たまには親孝行しなきゃ」などとつぶやきながら帰宅するという演出など考えられそうなのだが、たぶん止めたほうがいい。

噺のポイントは、顔を合わせず行う親子の軽妙なやり取りだ。洗練されたやりとりといってもいい。
「若旦那の放蕩っぷり」「大旦那の嘆き」「親子の情愛」などの要素は、噺のさまたげにしかならない。
なるほど、だからこの噺はまだ生きている。「掛け合い」だけを純粋に取り出したコントだったのだ。
コントであるので、日常からの飛躍はないほうがわかりやすい。
「替り目」も同じ構造なのかもしれない。これは改めて。

数少ない、聴き比べできた中では、三遊亭兼好師のものがよかったです。

作成者: でっち定吉

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