星新一の落語エッセイ

私は、小学生の頃から作家、故・星新一を読んできている。
多くの人が、中学生になって「読書くらいしなければ」と思って読み出し、短期間熱中し、いずれ顧みなくなるという作家である。
私にとっては依然、偉大な作家であり続ける。
「ショートショート」とともに素晴らしいのがエッセイ。
ありがたいもので、電子書籍時代になり書店で品切れになるエッセイ集も、ショートショートと同様すぐ入手できる。
電子書籍で改めて読み返してみると、子供の頃読みふけった記憶がほぼよみがえり、びっくりした。
「きまぐれ星のメモ」というエッセイ集に「落語の毒」という一文がある。この内容についても、当時からしっかり頭に刻み付けられていた。

今は無き「人形町末広」のこと、先々代柳橋(いわゆる柳橋先生)の、肩の力をすっかり抜いた高座のこと、桂小南「ぜんざい公社」の感想など書かれている。
昔の噺家や寄席について、自分が大人になって増やした知識でもって理解が深まるというのは面白いものである。

大変面白いエッセイだけど、タイトルどおり要旨は「落語には毒がある」である。
中学生の頃に読んで頭に刻み付けられていたということは、私はずっと、「落語の毒」を探して落語を聴き続けてきたということでもある。
急にうろたえてしまう。私は今、落語に「毒」など感じているであろうか。
ショートショートと落語の親和性は、しばしば語られているところでもある。実際、星新一も落語を数編書いていて、志ん朝と小三治の録音が残っている。
今思うと、星新一のショートショートも世間から人畜無害とみなされるところがあり、それに対する反発が、このエッセイ中にあるのかもしれない。

落語は権力に対する反抗などでなく、ドライなアンチヒューマニズムだというのである。
うすのろをバカにし、死者をからかうからだそうだ。毒を洗練してきたのが落語だと。
私が最近感じているのは真逆である。落語って、なんて人にやさしいのであろうかと。
そもそも、権力に対する反抗もさして感じない。「たがや」の侍は許せなくても、「岸柳島」の老武士には惚れてしまうものだ。
先月の池袋下席で、柳家さん喬師匠が寄席の掟を語ったうえで、あえてうちの子供の前で「幾代餅」を掛けた件は何度か書いた。
そこで感じたのは、師匠と寄席との、溢れんばかりの優しさだ。
ちなみに、同じ日、入れ替わりで浅い出番だった入船亭扇辰師匠、「田能久(たのきゅう)」を掛けた。珍しい噺だけど、昔話なので子供のほうがむしろよく知っている。
今になると、子供がいたから出してくださったのだと思えてならない。
扇辰師匠は、比較的珍しいネタを多数持つ噺家さんだが、以前寄席で「麻のれん」を聴いたことがある。按摩の噺。
もちろん、客席に目の不自由なお客がいれば出さない。
では、「麻のれん」はなにかのタブーに挑戦する野心的な噺なのか。そんなことは全然なくて、これは夏のある時期の、江戸っ子按摩の意地を描いた気持ちのいい小品で、扇辰師のニンにぴったりである。
気持ちを共有できる前提にないお客がいるのは確かでも、そういう人がいないとき、寄席の全体に一緒に気持ちよくなって欲しいというのが、たぶん扇辰師匠の心意気である。

噺自体もまた、優しい作品が多い。
「うすのろをバカにし」という噺があったかな。与太郎という人、周囲の優しさに包まれてばかりだと思う。

「毒」を売り物にした噺家、今、私が思いつくのは快楽亭ブラック師匠だけである。談之助師もか。
ブラック師も決して嫌いではないが、たびたび聴きたい気分ではない。

どうしてこんなに落語への世界観が違うのでしょうか。
嫌いな人が適当なことを書いているなら無視だが、そうでないので戸惑うばかりだ。

作成者: でっち定吉

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