うぞうむぞう

汲みたて/掛取萬歳

このところ、「日常の世界で通常の登場人物が活躍する噺」について考えている。
「世界・登場人物のいずれかに、日常からの飛躍がない噺は、後世に残りにくい」という仮説にのっとり、それにも関わらず残っている噺があるがなぜかを検証している。
その流れで、今日は「汲みたて」。
前回取り上げた「六尺棒」とは違って、もはや消滅しかけている噺である。
「日常からの飛躍がないので消滅しかけている噺の代表例」として取り上げるなら首尾一貫しているのだが、取り上げる人間がぞろっぺえなので、首尾は全然一貫しない。どうして消えかけているのか、よくわからないので取り上げてみるのであった。

女の師匠を狙う弟子たちの中で、建具屋の半公が見染められたと伝わってくる。
師匠のうちに手伝いに行っている与太郎に訊いてみると、確かに半公がちょくちょく泊まりに来ているとのこと。
今日は与太郎も柳橋へ、夕涼みのお供に行くとのこと。
振られた弟子ども、夕涼みをぶち壊してやろうと舟を手配し、鐘太鼓を用意してスタンバイ。
そこへ師匠たちが繰り出してくるので、半公が端唄をうなるところ、みんな鐘太鼓で妨害する。
弟子たちと半公、舟の上で喧嘩を始め、「糞でも喰らえ」「喰らってやるから糞持ってこい」と言い合っているところにスーッと肥舟が入ってきて「汲みたてだが一杯どうだね」。

サゲだけが飛躍している変な噺。なんじゃこりゃ、である。
明らかに、噺を終わらせるために取ってつけたサゲなのに、タイトルになってしまっている。下品だし。
夏の舟遊びの気分が、肥でもってぶち壊しになるところがシャレといえばシャレ。
サゲだけに着目すれば、なくなったって構わないような噺だが、これでもなくなると惜しい。
「炬燵の下で、お互い師匠だと思って男同士で手を握り合っていた」という楽しい小噺がまだ生きているのに、これをマクラにする本編のほうが消えかけている。
小噺は、「あくび指南」のマクラで使えるのだが、「あくび指南」は男の師匠だからつながりがスムーズではないし、振るマクラもこれ以外にたくさんある。
上方だと、「稽古屋」「猫の忠信」に続けられるのですが。

多くの話で、主役かチョイ役のいずれかである与太郎が、この噺では重要な脇役として登場するのも見どころ。
半公が、自分以外の弟子を「有象無象」と呼んでいるのを、与太郎が嬉しそうに伝えてくれる。「うぞう」があんたで、「もぞう」があんた。本当は「むぞう」だけど、「うぞうもぞう」と発音するのが雰囲気出てていいですね。

***

生で「汲みたて」を聴いた経験は一回だけだ。黒門亭で三遊亭金八師が出していた。
「生汲みたて」、なんか嫌な響き。

サゲの奇妙さが、やはり気になるのだろうか。古今亭志ん彌師はサゲを変えている。「汲みたて」というタイトルがどこかに行ってしまっているけど、まあ、演目のタイトルなんて記号だと思えばどうということはない。
サゲに重きが置かれている噺ではないけれど、なんらかのサゲなしでは成り立たない噺でもある。
最後は、仲間に「悪態つけ」とそそのかしたりして、ちょっと「大工調べ」ぽいところがあるけれど、弟子連中の怒りはただのヒガミだから、お上に訴えて出るわけにもいかない。
大工調べだったら、サゲなく「上でございます」でいいのだけど。

唐突なサゲの対策として、マクラで仕込んでおくのはよくある手。例えば「抜け雀」、「父を駕籠かきにした」なんて、仕込んでおかないとわからない。
例えば、三遊亭圓生で、
「江戸の昔はこの、水運が大変に盛んだったそうで、川というものは、物流の要所だったんですな。江戸近在の、川越ですとか、佐原なんてえ町も、ずいぶんと水運で潤ったと申します。江戸にいる、何十万の人を食わせるための食料も運びますが、シモのほうの輸送も同じくらい大事なわけですな。ですからこの、肥船なんてえものが大川を行き来したてえます」
ありそうなマクラだけど、今作った偽物です。
「汲みたて」に、こんなマクラを付けられても困りますが。

噺がすたれている要因については、私の仮説どおりではないかと思う。時代背景による異化効果こそあれ、この噺には、日常からの「飛躍」が足りない。サゲは別ですが。
女師匠も半公も、弟子連中も、わりと普通の登場人物だ。噺を古びさせないためのキーマン、不思議の国の住民与太郎先生がもう少し本来の活躍を見せれば、また違うのかもしれない。
例えば、師匠と半公側についている与太郎が、裏切ったらどうだろう。
与太郎だって男の子だ。美人の師匠が、半公とイチャイチャしているのを間近に見ていて、楽しいものだろうか。鬱屈していたっていいのではないか。
半公が師匠に手をあげて、仲直りするエピソードが挟まれているが、与太郎も半公にたびたび、殴られはしないでも口の暴力を受けているとか。
リアルにやると世界観が崩れてしまうから微妙だけど。

あとは、サゲの肥船登場は唐突過ぎるので、ワンクッション置いてみる。
「糞持って来い」という半公の言葉を文字通り受けて、与太郎がたまたま通りがかった肥船から、ちょっと分けてもらって、「うは、持ってきたよ」。「冗談言っちゃいけねえ」。
実際には、江戸の下肥は高価値のものだったから、分けてもらえはしないという点は大きな問題です。

***

「下心丸出しで女の師匠さんに近寄る」「師匠のほうも、商売だから弟子を持ち上げる」という構図、時代が変わっても普遍的なものだ。
「ひと晩いたのについに花魁が来なかった」という理不尽な話を理解して聴かねばならない廓噺よりも、ずっと現代人に馴染みやすいと思う。
「汲みたて」も、マクラともどもなくなっては欲しくない。
師匠を張り合う「経師屋連」。
あわよくば師匠をモノにという「あわよか連」。
師匠を食っちまおうという「オオカミ連」。
夏の夕涼みがてら稽古に来る「蚊弟子」。
夏を越しても残っている「やぶ蚊」。
こうしたフレーズが、後世に残って欲しい。
といっても、誰も聴かない噺を大事に保存しても仕方ない。楽しく聴いてもらうためには、ストーリー上の工夫が少々必要なのでは、というのが前回書いたところ。

難しい噺なんでしょうね。「江戸っ子の鉄火とバカさ」「師匠の色っぽさ」「与太郎の茫洋とした雰囲気」「唄」など、クリアすべき項目がたくさん。
古今亭菊之丞師など、いかにも手掛けそうな噺に思えるけど、やっていないのだろうか。
雲助師が掛けているから、白酒師、馬石師あたりはたぶん持っているだろう。
一之輔師が掛けてくれたら、流行りそうだけど。
珍しく江戸原産の落語のようだが、ハメモノ入りの上方落語に移植しても楽しいと思う。

山田洋次監督が落語に造詣が深いことはよく知られている。「男はつらいよ」シリーズにも、落語のモチーフがたくさん取り入れられているのはつとに有名である。
冒頭の夢シーンに、「抜け雀」をそっくり使ったなど。
「汲みたて」のマクラが、第3作「フーテンの寅」に取り入れられていたのを、先日たまたま見た。
湯の山温泉旅館の女将、マドンナ新珠三千代に惚れた寅二郎が、番頭に収まる。
炬燵で男女4人、手を布団の下に入れている。
寅二郎の向かいにいる女将が「最近、寅さんとよく似た幼馴染のことを思い出す。元気があって男義があって」と言う。
聞いてニヤつく寅二郎、「女将さんほどお美しければ、誰だってそうしますよ。女将さんのためなら、たとえ火の中水の中、いや、飛び込めって言われれば、うんこ溜めの中だって」と崩れ落ちる。ここでBGMがふっと途切れるのが楽しい。
顔をあげると女将はいない。寅二郎、気がつくと隣にいた女将の弟の手を握っていた。
受け場の直前に、「うんこ溜め」云々が出てくるところに、原典への深いリスペクトを感じますね。

***

五街道雲助師の「汲みたて」がとてもいいので、ありがたく聴いてみます。圓生に負けてない。
色っぽくて艶が合って、江戸っ子は小粋でバカだ。
噺そのものに欠陥があったとしても、こういう師匠が現代にたくさんいれば、噺もなくならないだろう。
雲助師だけでなく、珍しい噺を好んで掛ける噺家さんもいるが、珍しいだけで終わらないように切に願うものです。

マクラ「新しい師匠」

稽古屋の師匠で男というのは喜ばれない。
「新しい師匠、こいつが色が黒くて太ってやがんだなあ。こんな黒太りが清元教えようなんてなあ。今度会ったら水ぶっかけてやれ」
犬かなんかと間違えられたりなんかするという。
これが女の師匠だと。
「今度越してきた師匠、27で、おっかさんと雄猫一匹だけだってよ。おまけに小股の切れ上がったいい女」
「ほんとかよ、ありがてえ」
なにがありがてえかわかったもんじゃありません。

マクラ「炬燵」

話をしながら、「師匠の手はこのへんだな」と、小指かなんか斥候に出しまして。
なんにも言わないから二本、三本、ン?こら行けるかなってんで手を合わせたけども逃げようとしない。
ここが一番度胸だってんでぐっと握ってみると、向こうの方でもぐっと握り返してきた。
師匠のおっかさんが、ご飯片付けな、と師匠を呼ぶ。
おまんまどころじゃありませんよ。おまんまなんか糞くらえてんだ。
「はい。みなさんどうぞごゆっくり」と師匠立ち上がる。
「・・・おめえの手かこれ。なんだって握り返してやがんだ」
「はは。せっかくお前が握ってくれたんだ。無下にするのも気の毒だと思ってな」
「こら、離せ」
「いいじゃねえか。せっかくだから腕相撲でもやろうじゃねえか」

おまんまに糞くらえもないもんだと思うのだが、あるいはサゲの伏線を張っているのか。
小指を斥候に出すところがたまらない。
ごく普通には、相手の男も師匠だと思っているわけだが、「せっかくだから」握り返してやるところがミソ。洒落ですな。

たてはん

師匠にはいい男がもういる。知らねえか。建具屋の半公。たてはん。
半公? ああ、あの背の高い、ひょろっとした、色の白い顔の長い。片栗粉の袋みてえなの。あんなもんが師匠のいろになるわけがねえ。

まるで意味わからない。面白いからいいや。こういうところはやっぱり古今亭なんですね。

甘納豆

師匠のところに行ったら、長火鉢の向こうに半公がいる。
甘納豆を出してもらったが、干からびていて甘くもなんともねえ。半公も、もそもそ甘納豆食ってやがる。
半公が立ち上がり、師匠が追いかけて、廊下でひそひそ立ち話を始めた。気になるじゃねえか。こっちは四つん這いになってそーーと行ってな。
「廊下の話を聴いたのか」
半公の甘納豆を食ってみた。これが柔らかくて甘くて、うめえのなんの。あらかた食っちまった。
「だらしねえな」

昔の人というのは、男でも、甘納豆よほど好きだったんでしょうかね。明烏は有名だけど。
現代人は、いつでも酒が飲めるので甘味はあまり所望しないが、昔は酒も高かったのだよなあ。

他にも、師匠の腰巻御開帳やら、自分が師匠のいろにぴったりだと己惚れる男など、楽しいくすぐりが満載だ。

***

引き続き、五街道雲助師の「汲みたて」をじっくり聴いています。

「汲みたて」の前半で、「師匠のいろになれるのは、立て引きの強い奴」という有象どものセリフがあるが、雲助師匠もまた、立て引きの強い噺家さんである(微妙に言葉の使い方を外している気もしますが)。
落語というのは、非常にメロディアスなものだ。だからこそ、気持ちよくなって寝たりする。
上方落語には上方の、江戸落語には江戸の美しい旋律がある。
そして雲助師、言葉のアクセントの付け方が非常に丁寧だと思う。じっくり聞いているとこの旋律に引き込まれる。溜めておいてからパッ、というアクセントが絶妙だ。
やたら押しの強い芸ではないが、引く芸でもない。強弱のビートが心地よい。

こういう論評に入ると、抜け出られなくなりますので、昨日の続きに戻ります。
たいそうなことを言っているようで、ただの感想文に終わりそうだし。

与太郎

これは雲助師の演出の問題ではなく、「汲みたて」という噺の問題なのだが、与太郎の行動、どうも腑に落ちない。
主役か、チョイ役かのどちらかが通常の与太郎に、珍しく助演が振られている。重要な役なのに、扱いがどうもぞんざいだ。
この噺の与太郎は、「単純」で「純朴」で「無知」だが、師匠に気に入られているのだから恐らく気働きはできるという設定だ。
おかしくないか? 他の噺で、気働きのできる与太郎など出てくるだろうか? 「道具屋」の与太郎を軽く越え、落語における、もっとも賢い与太郎だと思うのだ。
だから、少々足りないのだとしても、純真などではいられないと思う。
若い男女が睦事に励んでいる中で、「夜中に起きたら師匠と半ちゃん、また喧嘩してた。蚊帳の中で取っ組み合いしてた」などと無知で言う人物ではないはずだ。
与太郎、師匠に惚れているとまでは言わないが、泊まりにくる半公に、有象無象の弟子とは違うジェラシーを持っているはず。
なぜ有象無象に、半公のことをペラペラしゃべるのか。なにか復讐して欲しいと思ってはいないか。
「うぞうが誰々、おまえがもぞう」と言って、いなくなってしまう与太さん。見事、有象無象の焚き付けに成功している。
与太郎も、ときに内心を吐露しているのだ。「半ちゃんの言うことは聞けねえけども、師匠の言うことだったら聞かないわけにいかない」と。
この、与太郎の描き方に、この噺を埋もれさせないヒントがあるはずだと思う。もう少し、与太郎の影を強調すれば、後世に残る噺に進化するのではないかな。

雲助師の噺に戻ります。
与太郎から「蚊帳の中での取っ組み合い」を聴いた有象ども、「おい、誰か受付変わってくれえ」。
「受付」という言葉のチョイスがいい。
テクニック論だが、与太郎が師匠と半公のセリフを引用するときは、微妙に与太郎口調でなくなっている。
「俺が短気であんなことして済まなかった」
「嫌いな人に親切にされるより、嫌いな人にぶたれたほうが嬉しいわあ」
科白を言い終わったあとに、ヘヘと与太郎笑いが入るのだが、引用部分は、アクセントを強調しない程度で普通の口調だ。
このあたり、「蔵丁稚」で、丁稚が芝居の真似をするときには、丁稚でなくなっているのと同じテクだ。

***

さらに繰り返し聴いていると、だんだん見えてくることがある。
与太郎は、「面白い」かどうかに反応するということ。
与太さんは、弟子どもに、師匠と半公の話をするのが面白くて仕方ないのだ。「うぞうもぞう」の話をするのも楽しいのだ。
「なんだその有象無象てえのは」と言われて、慌てて口をふさいでいるが、なに、喋る気満々だ。
そして最後、船の上で「やーい、うぞうもぞう」と声を掛けるのも、それが楽しいから。
こういう人物を味方に付けるには、常に楽しみを提供してやらないといけない。その点で、短気で当たり散らしている半公陣営より、有象無象陣営のほうに、はるかに高いアドバンテージがあると思う。

弟子の怒り

「有象無象」発言のもとは、半公から出る場合と、師匠から出る場合とがある。師匠から出たほうが、弟子の嘆きは深い。
雲助師の噺では、師匠から出ている。
弟子が怒るのなんの。この町内に転がり込んできて、身寄りがないからひとつご贔屓にという師匠に、あちこち渡りをつけて弟子をつけてやったのは誰だと。
「のたことつきやがって」という表現が江戸っ子だなあ。
「これから師匠のうち、叩っ壊して火イ付けてくる」
こういう穏やかでないセリフでは、客の笑いを待たない。噺を壊さないように、すかさず「そら穏やかじゃねえ」とツッコミを入れる。ウケが欲しくて仕方ない若手ではできないテクだ。
嫉妬に狂った男どもの暴走劇ではあるのだが、師匠に有象無象呼ばわりされ、一応は、怒る正当な理由があるのだ。
だから弟子どもは大まじめであり、シャレでやってる風だがシャレではない。
この状況で、シャレに走れるのはトリックスターの与太郎だけだ。だから、噺の深化には、与太さんをもう少し効果的に使う必要がありそうだ。

水上の闘い

半公が師匠の三味線で唄を披露するが、外から馬鹿囃子。
外を見た与太郎が「やーい、うぞうもぞう」と言ったのをきっかけに半公登場。
「なんだとはなんだ」「なんだとはなんだとはなんだ」「なんだとはなんだとはなんだとはなんだ」
「なんだとはなんだとは・・・あれ、あといくついうんだっけ」
「転宅」でおなじみのギャグですが、江戸っ子の馬鹿さ加減が出ていて好き。
このあとは、必死に悪態をつこうとして、
「やい、師匠。師匠なんざ・・・いい女だ。羨ましいや」
急な手配で屋根なし船の上、暑い思いをして鳴り物を鳴らしている自分たちの情けなさが沁みてきて、思わず泣けてくる。

新たなサゲを作る

ここで、やはり与太さんに活躍してもらおう。
「糞くらえ」「糞持ってこい」というところに、正面に肥船が入ってくるほうが絵にはなるが、裏から来てもらおう。
裏から来た肥船に、与太さんが面白がって、ちょっと分けてもらう。
どっちが「糞持ってこい」というかだが、雲助師のとおり、半公が言うほうがいい。
で、与太郎が半公に、
「うは。持ってきたよ。一杯おあがり」
これでサゲたら、最後まで与太郎が活躍できていいのではないでしょうか? 半公にも復讐できるし。
雲助師の「汲みたて」については以上。

***

先に書いたのだが、寿命の尽きかけているこの噺、ハメものが入るのである。ハメものの本場、上方に移植すると延命できるように思う。
しかし、現に上方でやっていないのは、考えてみると当然でもある。上方落語には、こういう特色があるから。

  1. 「若い衆」の群像劇があまりない
  2. 与太郎が登場しない

1は、東西の噺、
「酢豆腐」と「ちりとてちん」
「そば清」と「蛇含草」
の違いによく表れている。要は、無名の若い男どもがわいわいガヤガヤやっている落語は、江戸のものだということ。
「汲みたて」の有象無象は、必ずしも若い衆である必要はないのだが、勢いだけで突っ走る若々しい感じを有している。
上方では「饅頭こわい」「田楽喰い」などの群像劇であっても「若い衆」のイメージがない。「饅頭こわい」でも、おやっさんが話の中心になるし。
ただ、この点をクリアすれば上方にはなじむ。人物を刈り込んで、個性豊かにするといい。
有象無象を、「喜六」「清八」、それから「源兵衛」にしてしまえば解決するように思う。
「汲みたて」の最後のシーンで、「悪態つかんかい」と煽るのが清八、そう言われて悪態をついて失敗するのがアホの喜六。これはわりとぴったりかも。

2がもっと問題。
与太郎キャラは、上方落語には一切登場しない。
喜六のようなアホはいるけれど、与太郎に相当する人物の出番はないのである。
上方落語には、女の師匠のところに泊まって人畜無害と思われる人物は出てこない。害のありそうな男ばかりだ。
ここをクリアするためには、たとえば、「ある程度年かさの丁稚さんが、主人の命令で手伝いに行っている」という設定にする必要がある。つまり、まだ子供である。
そして、この丁稚に、強い個性を与える必要がある。そうしないと、噺が残るために必要な「飛躍」が生まれないから。
個性の発揮は、「喜六」がある程度肩代わりできるかもしれないが、この噺では主役に成り得ない。喜六の個人的な恨みを晴らすために、清八が協力してくれるというなら「くっしゃみ講釈」パターンだが、二番煎じだ。
丁稚に個性を与える場合、やはりジェラシーと憎悪を内に秘めている設定だろうか。
半公(いかにも江戸っ子の愛称なので、徳やんでもなんでもいいが、別のいい名前をつけてやりたい)に、日ごろ理不尽なことを言われて鬱屈していて、なんとか復讐してやろうという少年だ。
ひねた丁稚の登場例は多数あるから、噺も膨らませやすいだろう。

・・・だんだん面白くなってきた。どうですか、上方の師匠がた。この泡沫ブログをご覧になっていればだけど。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。