マンガと落語の共通点(下)

よくできた落語とよくできたマンガとの共通項につき、いきなりひらめいたのであった。
そして小説はというと、意外と共通点が薄いことも。

落語では、人物の背景をほとんど語らない。
そしてマンガも意外なぐらい背景を語らない。読者が求めていない背景の語り過ぎは、物語の邪魔をすることが多いのだ。
マンガ連載が続くうちに、徐々に背景を出してくる程度。
もちろん、最初からの想定に基づき徐々に背景を明らかにしていく手法もある。だが実際のところは、首尾よく連載が続いたので、飽きられないようぼんやりした構想に肉付けしていっただけなのが大多数ではないか。
そしてたぶん、そのほうが成功する。背景を決め過ぎていると、物語がのびやかでなくなってしまうであろう。
そもそもマンガでは、背景の明らかにならないうちからすでに、読者は登場人物に感情移入ができている。

小説だって連載の結果単行本にまとまる。
そして意外と、連載中行き当たりばったりに書き進める作家がいることを読者は知っている。
それでもなお、連載中から単行本の完成が強く想定されているわけだ。
1冊のハードカバーを想定して連載されたものが、大河小説になってしまうことは、なくはないが珍しい。
この点、世への登場の仕方が異なる。マンガのほうが、連載当初のツカミが重要なのだ。

八っつぁん熊さんご隠居さん、人のいいのが甚兵衛さん、馬鹿で与太郎。
古典落語の登場人物は、いずれも背景を語る必要がない人たちばかり。記号化された人たちだ。
与太郎なんてなかなか特殊な人物造形だが、これについて説明不要なのは、東京落語の偉大な発明であった。

八っつぁんと隠居の会話で始まる古典落語は、前座噺を中心に多い。
噺が始まる前にも途中にも、これら登場人物に関する説明はない。
「えー、この八っつぁんなる男、八っつぁんは愛称で本名は八五郎ですけど、若くてひとりもので、仕事は大工なんですね。どういうわけだか隠居と気が合うので、用もないのによく遊びに来るんですね。口は悪いですが、隠居は肚の中になんにもない八っつぁんが大好きなんですよ」
なんて。
邪魔もいいところ。八っつぁんも隠居も、エッセンスを抽出してできている存在だ。

そして古典だけではない。新作落語でもそうなのだった。
新作落語をいろいろ思い浮かべてみたのだが、背景の語られる新作は少ない。
三遊亭白鳥師のものなど、ほぼそうだ。
ナースコールとか、座席なき戦いとか、アジアそばとか寄席の定番を思い起こしてみる。
白鳥師は物語の冒頭で世界を歪め、不思議な登場人物をバン!と提示してしまう。
すると客はもう、説明を求めなくなるのである。ユニーク過ぎる人間が、整合性を取って生きている世界など最初から存在しないからだ。
白鳥師は、マンガにおいて絵がもたらす効果を、言葉でもって語りきっている。
最初から世界と人物との間にズレが生じているので、このズレの程度をいじることで無限に笑いが生み出されるのである。

ただ、流れの豚次伝という、大きな例外がある。
「任侠流山動物園」において登場した豚次は、壮絶な人生、いや豚生を持っている。
当初は遠景に過ぎなかった人物背景に、勝手に肉が付いていったのであろう。
課長・島耕作みたいなもんでしょうか。続編だけでなくて前編も多数作られていくという。

大多数の新作落語は、白鳥師同様、マンガに近い。
春風亭百栄師などは、絵に描けないマンガをよく出している印象。露出さんとか、ホームランの約束とか、これは絵に描いたらつまらない。
でもやはり、記号化された人物の扱いがマンガっぽい。

ただし新作落語界にひとりだけ、新作落語の作り方がマンガではなく小説に近い人を見つけた。
柳家喬太郎師である。

喬太郎師は古典新作、爆笑から人情、怪談、下手するとエロまで、落語に存在するありとあらゆる要素でトップを走るすごい人。
このような人だから、他の新作と違い、小説寄りのものも持っているのである。
もちろん、マンガ寄りの新作もある。
「母恋くらげ」なんてそう。冒頭は海の生き物のシーン、そして次に小学生の遠足のバスの中。
「路地裏の伝説」のように、一応リアルな登場人物でできている落語も、マンガっぽい。

だが、私の脳裏をよぎったのは「ハンバーグができるまで」。
男が突然、挽き肉やジャガイモ、玉ねぎ、ニンジン等を求めに商店街にやって来る。
商店主たちは大騒ぎ。このまもるちゃんは料理なんかできないし、したこともないはずなのだ。
かみさんと別れてからは、お惣菜しか買わない男だ。

この舞台化もされた深い新作においては、珍しく背景の説明がなされる。
主人公まもるの離婚した元かみさんが、突然ハンバーグを作りにやってきたのだ。
この背景が、街の愉快な商店主たちの目も通し、徐々に解き明かされていく。
もちろん、露骨に解き明かすのは野暮だ。商店主たちの目から観察した主人公まもるが、はっきりとした輪郭を持ってくる。
舞台化されたぐらいだから、この作品をマンガ化することは可能。十分いい素材だ。
だがマンガにする際には、背景の希少化がおこなわれるはずだ。
絵があることにより、読者が深い説明を求めなくなるのである。

マンガという形式のすばらしさを語っていたのに、最後は小説っぽい落語もいいねで終わってしまいました。
小説もいいですねということで。

このテーマ、意外と書き込んでしまった。
「このマンガがすごい!」も入れるつもりなので、いずれ取り上げます。

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作成者: でっち定吉

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