拝鈍亭の瀧川鯉昇2(中・「鰻屋」)

たっぷりのマクラで満足した。
鯉昇師のマクラ、知っているものだって十分に面白いのだが、今回は知らない内容が大部分で、さらに得した感じ。
これだけ仕込んでおくのも大変だと思うのだが。
楽しいマクラからどうつなげたのだったか、鰻屋へ。
他の噺家のものとまるで違い、実にコンパクトな一品。長いマクラの後で、10分くらいだったと思う。
そういえば歌丸師が笑点でやってた印象があるから、短くできないことはないわけだ。だがたっぷり時間があってもサクッと終わる鯉昇師の鰻屋、やはり独特。

鯉昇師の古典落語の編集は、他にないものがある。重要そうに思えるシーンもお眼鏡にかなわなければスパッと切ってしまい、自分基準での面白いシーンに絞り込む。
鯉昇師の鰻屋、私は初めて聴くかもしれない。ただ、アキバで仕入れた電気ウナギが混じっているのは有名なので知っている。
桂竹千代さんも電気ウナギを出していたのだが、もらったのだろうか。ただ、教わってはいないのでは。

鰻屋という噺、長いものを聴いて感心したことは少ないかも知れない。
冒頭の、大川(隅田川)の水飲まされるエピソードもよくわからないのだ。シャレなんだけどもあんまりタチのいいシャレじゃない。
そして噺の基本にあるのは、職人がすぐ叔母さんのところに行ってしまって(ウソに決まってるけど)あたふたする鰻屋の主人をからかって遊ぼうという江戸っ子の了見。
江戸っ子らしいのだが、あまりタチはよくはないかも。
鯉昇師、鰻屋という噺のこうした重要アイテムをばさっと捨ててしまうのだ。その断捨離のすごさに感動する。
残ったものは、世の中ついでに生きてる人たちの会話の妙だけだ。そしてこれさえあれば鯉昇落語は成り立つのであった。

大川の水の代わりに、ごちそうしてもらうのを期待し、繁華街を連れ立って歩く回想シーンが入る。
鰻は好きかと問われ、好きだと答えると、「俺も好きだ。お互い好きだということがわかればそれでいい」。
それがトラウマになったので、鰻食いに行こうと誘われても頑なに断るのである。
理由を聞いて、結局連れ立って鰻屋に行くのだが。
でも、目的として亭主をからかって遊ぶのではない。誘ったほうは、先日職人不在によりタダ酒をゴチになったので、少し返そうと思っているのである。ちょっと衝撃の了見。

職人がいないので、鰻が捕まえられない。なので亭主も先日の客が来たというのにとぼけた対応をしている。
病気のウナギだったら捕まりますなんて言っている。
そして観賞用のウナギもいる。客が主人が止めるのに捕まえようとして、ビリビリ食らっている。これが電気ウナギ。

サゲも変わっている。にゅるにゅる上に逃げるウナギを捕まえながら「前に変わってウナギに聞いてくれ」というのは同じだが、これがなんと客のほうである。
客が自分でウナギを掴み、逃げられて右往左往するのだった。
はしごを持ってこいとか、こないだひと晩経っても帰らなかったとか、そういうナンセンスさを抜いて成り立ってしまうのだ。
鯉昇師は、普通の噺家と見ているものがまるで違うのであった。
それこそ、あのにゅるにゅるなしでも成り立ちそうな一席。

破天荒な登場人物が出てこなくても、鯉昇落語は実に面白い。セリフのやり取りだけでもうたまらない。
やり取りといっても、上方のボケツッコミの文化とはまるで違うものだ。
そしてマクラで語る「熱演しない」についても、鯉昇師には大きなこだわりがあると思うのだ。
熱演なんて意味がない。いかに客の気持ちをふわふわさせるかなのだ。
先人がいない中でこのシステムを見つけ出したのだからすごい人。

鯉昇師は30分程度で下り、続いて伊藤夢葉先生。いとうむよう。
普段は落語協会の寄席に出ている人なので、鯉昇師と一緒にはならない。
いつものマジック。いつもので、この人は楽しい。
牛追いムチを鳴らしておいてから、ごく軽いマジックへ。
色物さんで、いつも同じことをやっているのでお見かけするたび魅力が薄れるという人もいる。
夢葉先生は同じことをやっていても毎回楽しい。

楽しいのだが、軽妙な話術を聴きながら最後のほうは寝てしまいました。
そのまま仲入り休憩時まで寝続ける。
私は別に、昼寝をする習慣もないのだが、落語のときだけどこかで寝てしまうのであった。そういう人も多いと思います。

仲入り後の夢の噺、芝浜に続きます

 
 

作成者: でっち定吉

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