続・落語ファンですが「高輪ゲートウェイ」を支持します

高輪ゲートウェイ騒動の続きです。
相変わらず反対派がヒートアップしている高輪ゲートウェイ命名問題。
しかし私にとっては、最初から違和感ゼロの駅名。
めちゃくちゃいい名前、と思っているわけではないけど。まあ、普通の名前。別に恥ずかしくはない。
心理的な反発を最初から一切抱いていないものに対し、多くの人が反対運動の署名までしている。
自分の感覚がおかしいのかなと、一瞬だが思ったのも確か。
だが、「ねとらぼ」の12月3日から3日間のツイッター民対象調査によると、なんとポジティブ派が56.7%と、過半数なのであった。
なんだ、勇気を奮って書いたのに、逆張りどころか、アタシは多数派だったよ。
もちろん、一方で不支持8割なんていう調査結果も出てたりするので鵜呑みにはできないけど、私の体感に沿った数字もあるのだ。
少なくとも私の言語感覚は、決して少数派のものではなかったのだ。
そうだよね、別に古い駅名を棄てて改名した事例でも何でもないし。近くには泉岳寺駅があるけど、かつて裁判沙汰になった過去があったこの駅名は、最初からあり得ないし。

高輪ゲートウェイへの反対意見の根幹は、自分の未知のものについて恐怖を覚え防御に走る、暴走老人的発想だと私は思う。
この発想こそ、大阪都構想を頓挫させ、英国のEU脱退を決定し、トランプを勝利させた恐るべきもの。
反対運動は勝手だが、反対者からはとてつもない傲慢さを感じる。

署名が集まろうがなんだろうが、高輪ゲートウェイが許せないという思想の本質に、芯は何もない。
決定のプロセスがおかしいという意見は、駅名が許せないという意見と完全ワンセットなので、採るに足りない。
「センスが悪い」という意見はあるが、どうセンスが悪いのかを説明したものはひとつもない。
「山手線の駅名はシンプルな漢字であって欲しい」というのは、ただの感情論。
感情論しかない場合において声を上げるとしたらどうしたらいいか。前提を無視し、当然感を出す。声のでかさで勝負。
最初に命名者のセンスを罵っておいて、さらにJR東日本を罵っておくと、根拠は説明しないままでなんとなくでかい声に聴こえる。
薄っぺらい理屈をちょっと強化しようと思えば、「高輪大木戸ならいい」とか、無難そうなコメントも、併せて混ぜておけばいい。
実は大変卑怯な主張のしかた。よくよく眺めれば、なにひとつ語ってはいない。
堀井憲一郎氏が、林家九蔵襲名断念につき、「協会」の枠組みにより襲名阻止が正当化されるという根拠をまったく書かずに、それを前提に正蔵師を擁護していた卑怯さを思い出した。
ここで無理に落語の話題とつなげてみました。一応、落語のブログなので。

カタカナがおかしいという論理が成り立っていないことについては前回書いた。
東京テレポートや品川シーサイド、たまプラーザと、このたびの品川新駅が「違わなければならない」必然性は一切ない。
「今どきカタカナをくっつけた駅名は時代遅れ」だって。自分自身の主観を、「時代」という客観的なものにぶつけて変質させておいてから、客観的な意見のようにふるまうという。
言っているほうも実は、この論理破綻に先刻気づいているのだ。
彼らを支えるものは結局、「田舎や海の上の駅と、東京の真ん中とを一緒にするな!」というものだけだ。
だが、これを口にすると、自分の中の田舎差別を見抜かれてしまう。なのでそこは決して語れない。
浅葱裏が威張っているのが気に食わない、棒鱈の江戸っ子と一緒なのでは。というか、とっくに浅葱裏だらけの世の中でなにを守ろうと?
それにしても、そんなゲートウェイ反対派文化人の出身地を見ると、兵庫、福岡、愛媛、茨城などなど。
我らが落語界の重鎮(笑)、立川談四楼師匠は群馬。あらら、言ってる側が揃いも揃って浅葱裏じゃないか。
自分が選び取った居住地である東京に、ヘンな思い込みと過剰な期待があるのではないかな。
東京出身者にとっては、それほどの違和感はないんじゃないか? 東京はこうでなきゃという思い込みがないから。

まあ、なんとなく反対派が優位なように今は映るが、なにしろ論理に欠けた集まりだから、その瓦解は早いだろうね。

作成者: でっち定吉

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