先日、笑点ネタを書いてみた。
おかげさまで好評でした。
このネタ、自分でも驚くぐらいスラスラ書けた。
これはもう、番組の力なのである。
笑点ではキャラが確立しており、お題に合わせ各出演者が言いそうなネタを当てはめていくだけで作れてしまう。
私は落語好きである。
落語好きの中には、笑点は唾棄すべき存在と認識している人がなぜか多い。
よく考えると不思議な事象だ。
落語好きなのに、噺家がテレビに出ていても無視するという。まあそういう私だって、志らくが出てる番組になんの興味もないけども。
ともかく、「落語好きは笑点を見ないもの」という考え方が見当違いなのは、何度も述べているから今日は改めて振り返りはしない。
だが、日頃と違う表現でちょっとだけ言わせてもらおう。
- 「笑点ファン」の大部分は落語にさほど関心がない
- だが、笑点も落語の一種であり、当然落語要素を濃厚に持った芸である
- 笑点の理解できない落語ファンは、大した落語好きじゃない
中には、笑点を全力で貶めようとするプロまでいる。
こんなプロは、当然売れていない。
面白いツイートのひとつも書けない立川雲水を見ればよくわかるだろう。まあ、限りなくアマチュアに近いプロだから。
「笑点は台本があるから誰でもできる」という人も多い。
オメーになにがわかると思う一方、そう言いたい気持ちがまるでわからないわけでもない。
だって私も、落語に一切興味のない笑点ファンが「笑点レギュラーはみんな即興でネタを作れる人たちなんだ」と尊敬しているのはとても気持ちが悪いから。
よく知りもしない噺家のことを勝手に超人だとみなすこの誤解は、さすがにちょっとね。
なかなか、ちょうどいい向き合い方がない。
ゲストで出た南光師の話をまとめると、実際の運用はこうらしい。
- お題は先にもらう
- 収録日までに各自ネタを考えておく
- 当日一回リハーサルをする
- 面白いネタを採用
- 本番で、用意したネタを出す
これが事実だろうと私は思っている。
そうだとして「やっぱり台本なんじゃないか」「いや、自分で考えてるのなら偉い」「三平が現にダメだったのをみれば、実力が必要なのは当たり前だ」「作家さんはなんの仕事をしているのだ」など、いろいろ感想はあるだろう。
感想は自由だが、ひとつ言えることは、「誰でもできる」わけないのは明らかだということ。
落語好きなら小遊三師の本業の実力ぐらいご存知であって欲しいが、そんな師匠が全力で(力は抜けてるけど)上記に挑んでいるのを見て欲しい。
笑点を馬鹿にするなんて、落語好きの風上にも置けないと思うがね。
ちなみに、作家さんの仕事は1と4であり、そして1の回答をある程度試しに作っておくというものと推測される。
これ以外、作家主導で、演者にアテ書きするネタもあるのではないかと私は思う。
作家の考えたネタを、アテ書きされた演者が使ったとして、それを「台本のおかげ」だとは、私は理解しない。
ブログのネタ自体はメンバーのおかげでわりと簡単にできたが、これ以外で気づいたことがある。
司会を含めたメンバーのセリフを、「うちの師匠はしっぽがない」というフレーズと同様、語調を揃えて書くと、実にふさわしいものになるということ。
「うちの師匠はしっぽがない」は3・4・5でリズミカルだが、このフレーズと同じようにリズムの良いセリフを書く。そうすると、実際の笑点のイメージが浮かび上がるのである。
これはもちろん、実際の笑点が、本当にこうだからに他ならない。「いい答には座布団を差し上げます。悪いと取ります。10枚たまると」こんなのがわかりやすい例。
昇太師匠の司会のセリフなど、挨拶から出題まで、ずっと語調が揃っていることに改めて気づいたという次第。
なるほど、笑点の魅力のひとつがここにあった。
知らないうちに、視聴者は綺麗な日本語のリズムに浸っているのである。
よく考えたら、噺家とはそういう商売なのである。
古典落語がそうできていて、マクラもまたそう。そして、自分自身の話をする際も、噺家は自然とリズミカルな言葉を用いている。
そうでない噺家もいる。どうにもマクラのつまらない二ツ目の噺家など、だいたいリズムに沿った語りができていないのである。
恐らく、できる人にはなんでもなく、できない人には稽古しても出せないスキル。
笑点のセリフの語調は、作家さんの仕事ではないと思う。
昇太師匠の出すお題を考えるのは作家さんだが、昇太師はナレーターではなく、作家がそのセリフを一言一句書いているとは思えない。
だが、売れてる噺家さんは自然といい語調になるのである。
というわけで、笑点をお楽しみの際には、「語調」にも注目していただければと思います。
もちろん落語でもだ。