弟子を持つ快感・師匠を持つ快感

パワハラ事件も、収まってきたもよう。
天歌さんの破門が本人の望み通り成立し、師匠圓歌は理事を辞任。

もちろん天歌さんとすれば、落語界の悪習自体を一掃したいわけで、闘いはまだまだ続く。
だが、そのすべてを追っかけていく気までは、私にはない。
天歌さんが落語協会に残れず、ようやく支援を表明した談四楼門下に収まり、色のついた噺家として再出発したとする。そんな話ありませんけどね。
それは応援しないが、そうなるのはご本人の自由だ。
どこへも行けないよりはずっといい。虐げられ続けてきた人が弱者の味方になるのは自然な流れだし。

圓歌という人は、なにしろ異常すぎて、落語界におけるパワハラの例題としてはあまりよくないと思う。
いっぽう家庭においては、恐らくだが典型的モラハラ亭主だと推測する。
コミックエッセイによく出てくるタイプの旦那。妻を追い込み、内面から改造して従わせる典型的手口を使う。
このタイプのモラハラは、治らないそうである。
すべてを支配したい人に違いないので、これも恐らくだが一門も支配しているのでは。
圓歌は総帥の名前だから支配して当たり前だが、モラハラ男の場合、心理的にも支配しようとしている可能性がある。
ああ怖い怖い。

東京かわら版が届いたが、師匠は11月も寄席に出ている。末広亭中席と、池袋下席。
さすがにもう遭遇しても笑えないよなあ。
ちなみにかわら版に、事件のことは1行も載っていなかった。まあ、そうだろうけど。

さて、今日は気楽に思い付きを書きつらねるつもりだったのだが、書きながらテーマを思いついた。

噺家は、なぜ弟子を持つか。言い換えるなら、なぜ師匠になるか。
もちろん、自分が師匠に獲ってもらって今がある。恩返し。
昇太師は今や大勢の弟子がいるが、最初はイヤだったと公言している。
小遊三師に、師匠に育ててもらった恩があるだろと言われていたところに弟子が来たのだと。
だが、これは照れ交じりだと思うのだ。

師匠にはきっと、「弟子を持つ快感」があるのだと思う。人によってその中身は違うだろうけど。
弟子のほうにも、師匠のいる快感がある。快感が一致すると、平和な師弟関係となる。
いい一門というのは、きっとこの快感に満ちているのだと思うのだ。
弟子が受賞すれば師匠はそれは嬉しいだろうが、そんなハレの日の話に限らず、日常から快感に溢れているのがいい一門。

オチケンで情報を得ている噺家志願者は、「厳しい」「楽そう」という情報で入門先を判断するようだ。
まるで間違いとは思わない。なにしろ厳しい師匠につくと、育たない。
修業の厳しさが、落語の役に立った事例はほぼないのだ。
楽な師匠について、時間を有効活用し、自分で腕を磨くほうがずっと出世する。
今回、明学のオチケンにいたくせに師匠のひどさが見抜けなかった天歌さんへの批判も散見される。二番弟子だから見抜くのは困難だったと思うけど。

だが、厳しいか楽かは、恐らく基準としてはあまり意味がない。
師弟関係に快感があるかないかを考えたほうがいいはずだ。
小言を言う師匠に対し、快感を味わう弟子もいると思う。マゾヒスティックな意味ではなく。
何の脈絡もなく怒りグーパンチを浴びせる師匠では、さすがに快感にはならない。

師匠の側も、大勢獲ると、あるいは志願者の話を聞くと、だんだん相性がわかってくるという。
合う弟子というものは、師匠にとって快なのだろう。そして師匠が快であることを喜ぶ弟子も、また快。
これが師弟関係というものの本質では。
そしてここで感じた快が、噺家の心根に沁みこみ、噺に彩をもたらしてくれる。
つまり、これがあるべき修業では。

弟子志願者の中には勘違いして、厳しい師匠を選ぶという人もいるだろう。
間違いなのは「厳しい」かどうかではなく、互いに快を与えあう関係になれないことが、きっと最大の問題。

今回、ヤフコメあたりでは「落語界は閉鎖的すぎる」という意見をよく見た。
確かに、師匠につかないとプロになれないという点ではそう。
漫才はすでに師匠を持たないプロが圧倒的多数となっている。それを当然と心得る人には、落語界は不思議でならないだろう。

私も今回ちょっと意見を変えた。
いい師匠の下で育つメリットは理解しているが、それが絶対でなくてもいいかなと。
落語界も、師匠を持たない噺家を、協会主導で育成してもいいかもしれない。
亭号は、明らかに一門外だとわかるものを付ける。
前座として楽屋修業はして、あちこちの師匠に噺を教わり、声を掛けられれば旅にもついていく。
だが自分自身の師匠はいない。楽屋でお世話になった噺家が受け入れてくれるなら、改めて弟子入りするのをよしとして。
業界のセーフティネットとしては、師匠のいる噺家と異なり、真打昇進時に実力が足りていなければ、披露目をせず退会してもらうルールとする。
私は人が実力を審査するのも嫌いなのだが、このぐらいの制度は代償としてやむを得ない。
退会後、真打になっていないフリーとして活動することに、異は唱えない。

そういう存在があれば、師弟トラブル、破門時の受け皿になれる。
私は本来、文楽志ん生の頃のように、師匠を替えることができた時代に戻ればいいと思っているのだが、それができなくても代わりになる。
結果育たなかったら、失敗ということで。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。

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