亀戸梅屋敷寄席27(下・三遊亭萬橘「浜野矩隨」)

三遊亭楽麻呂師は、円楽師の思い出。
この亀戸梅屋敷寄席ももともと、円楽師のところに持ち込まれたものですと。確か楽麻呂師が、円楽党全体と同様に事務局を務めているはずである。
亡くなったときぐらい本当のことを言いますが、あの人は本当に裏表のない人でした。策を弄するとか、そういうことは苦手な人です。
円楽師に一度、「えびせんが好物です」と話したら、その後ことあるごとにえびせんをくださるようになりました。寄席にことづけておいてくれたりするんです。

医者のドキュメンタリー小噺を振り、新作落語へ。
オリンピック中止にかこつけ、4年に一度の町内運動会を扱った噺らしいが、ここで眠くなって熟睡してしまう。

仲入り休憩も寝続け、ようやく目を覚ます。
今日の目当てのひとり、三遊亭鳳笑師はなんと3年半振りだ。コロナ禍の真打披露に行きたかったのだが。
ギョロ目で相変わらず変態っぷり炸裂。刑事ドラマの犯人役で見たい人だ。
マクラなに話してたっけ。頭ぼんやりしてたんで忘れちゃった。
本編は釜泥。普通にやってても登場人物がおかしいのが、鳳笑師のウリ。
爺さんが、(釜の中だから見えないのに)これがやりたい、と仕草で酒を催促する。
婆さんが受けて、「釜の中からこんなことなんて(仕草付き)言われても見えませんよ」
という、なぜか伝わっているギャグに爆笑。
泥棒二人もすっとんきょう。
鳳笑師は亀戸・両国の得難いメンバーだと思います。

あっという間のトリ、萬橘師。
小室圭さんの司法試験合格ネタ。眞子さんがよかったんでしょう、育った家庭を反面教師にしたんでしょうかと毒を吐く。
幼稚園の避難訓練に参加し、娘さんと一緒に煙の中を歩く訓練。
出口に娘の友達が待ってて、「あ、おじいちゃん」。
もともと白髪頭の萬橘師だが、じわじわ来るネタ。浦島太郎という補足が入ってやっと全貌を理解。

親子だからといって、子が親のやることをすべて受け継げるわけではありません。
と振って、眼鏡を外し、なんと浜野矩隨。

前座の楽太さんが、「師匠の浜野矩隨は長いんですよ」と語っていたのとは関係ないだろう。その時間には来てないだろうし。
だが、マクラで一切円楽師について語らなかった萬橘師なりの追悼なのだろうか。
追悼はいいけど、辛気臭い噺だなあと思う。嫌いな噺じゃないけども、萬橘師に期待するネタじゃない。
だが、これが本当に絶品だったのだ。

私は人情噺を、「魂のほとばしる噺」と理解している。
人情噺の嫌いな人もいるだろう。落語で泣きたくないよと、わかる。
だが、魂のほとばしった噺は、泣くというわかりやすい感情に収まるものではない。こちらの心臓を切り裂かれる思いがするものだ。
滑稽噺と、無理に切り分ける必要なんかない。

人情噺のスタイルもさまざまだ。前半で意図的にたっぷり笑わせておき、あとは一切笑いを入れないものもある。
演者なりのサービス精神と理解している。
だが萬橘師の人情噺は全く違う。笑いの要素を排除していない。
というより、笑いと怒り、悲しみを識別しないで入れてくる。
お客を信用しないとできないスタイル。

どういうことか。
萬橘師は、ひとつのシーンを多面的に描くのだ。
主人公矩隨が、世話になっている若狭屋に罵倒されているシーンはつらいものだ。
だが、若狭屋が言うのももっともなのだ。だって下手なんだもの。
つらいという感情と、下手だねえという笑いとを、萬橘師は識別せず、両方放り込んでくる。
バナナの皮で転んだ人には悲劇、見ている人には喜劇なんて昔から言うのだが、実際にやって見せられると息をのむ。

腰元彫りの名人を父に持つ矩隨の作品を買ってくれるのは、道具屋、若狭屋だけ。
若狭屋はなにも矩隨に見どころがあると思っているわけじゃない。矩隨の父・矩康に世話になったからに過ぎない。
矩隨の作品は、無条件で一分出す。
だがその若狭屋、二日酔いの迎え酒のせいでもあるが、あるとき感情を爆発させる。
矩隨の3本脚の馬を見て、うちの敷居はまたぐなと。

ちなみに萬橘師によれば、3本脚の馬は、父の作品を見て模倣したもの。うっかりではない。
父は、対象をじっくり観察し、1本脚を上げて3本脚に見える馬をあえて彫っていたのだと。
ちゃんと理解せずに真似だけしているのが息子。うん、隠れた演芸論でもあるな。

ストーリー自体は非常にシンプル。
若狭屋は死んじまえとは言わない。罵倒された矩隨は、帰宅後母親にすべてをすぐ話す。母親から観音様を彫り上げておくれと言われ、3日3晩彫り続ける。
そこに心の逡巡は何も入れない。
なぜ急に見事な彫り物ができたのか、理由など明確にしようもないのだから、これでいいということだろう。
水盃はわかりやすく描くが、母の自害は事実をやはりシンプルに描くのみ。
客はもちろんいろいろ思うのだが、萬橘師は押しつけは一切しない。

シンプルなストーリーだが、「泣き」一色にならないよう、小僧の定吉を、中盤とサゲで効果的に使う。
矩隨の彫ったカッパ狸を、定吉は辛いときの心の支えにしている。これを見ると、明るくなるのだ。
これこそ、萬橘師の狙いそのままではないのか。

魂のほとばしる、見事な人情噺でした。
最近ご無沙汰していたので、知らないのだがこんなスタイルまだまだお持ちなのだろうか?
また聴きにきます。

(上)に戻る

 
 

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。

4件のコメント

  1. 浜野は先代円楽師のそれを聞いたくらいで、考えたら随分聞いたことのないネタですが、定吉さんの記事見てたら、かっぱ狸のくだりなど、結構先代円楽師の型を引き継いでいるのかしらんと。ただ3本足の馬を、ウッカリやってしまった先代円楽師と違う型にしてるところなど、興味深いなあと。聞いてみたくなりました。

    1. いらっしゃいませ。
      3本脚のくだりは、演者自身を納得させるためかなと思いました。大事なことです。
      寄席のトリで出すぐらいなので萬橘師のものはとても軽めでした。
      でもそれがいいなと思ったのです。
      人情噺が寄席で掛かると、一生懸命笑おうとする客がいるのでしらけることがあります。
      萬橘師のだったら、笑っても全然OKかなと。まあ、ちょっと笑い過ぎだと思うところもありましたけれど。

  2. 浜野矩隨は以前、三平師のを聴いて「なんじゃこりゃ?よくわからん」と思い、神田伯山先生の講談で聴いて「いい話だ!」と思ったので、今度機会があったら ちゃんとした落語の形で聴いてみたいです。
    意外と二ツ目のかけ橋さんあたりが持ってたりしないかな?

コメントは受け付けていません。