二番煎じ

このところ、「日常の世界で通常の登場人物が活躍する落語」を選んで聴いている。

古典落語でも新作落語でも、日常からの飛躍の少ない噺は残りにくいという仮説を立てている。既存の演目につき、「残っている理由」「こうすれば残せる」という検証をしている。
その流れで、「六尺棒」「汲みたて」を取り上げてきて、今回は「二番煎じ」。これからの季節にぴったりの、食事とお酒の進む噺。

与太郎や、熊さん八っつぁんが出てくれば、とりあえず落語になるのである。
彼らは、「日常の世界」において、「非日常」の行動をする人たちだ。柳家小ゑん師匠の新作落語に登場するオタクもそう。
他方、「二番煎じ」の世界には、日常から逸脱した人物はいっさい登場しない。そして、それを受け入れる世界のほうにも、特に変わったことは起こらない。
日常を描いたとても楽しい噺である。今後も残っていくだろう。それはなぜかを明らかにしていくつもり。
「日常からの飛躍の少ない噺は残りにくいという仮説」そのものが間違っているということも考えられるわけですが・・・

冬の晩、町内の旦那衆が自ら夜廻りに出る。
全員で回るのは無駄だということで、月番の主導でふた組に分かれる。一の組が廻りに出るが、寒さのあまり、手が懐から出ない。手を出さずに拍子木をこつ・こつと打ったり、金棒を握らずひきずったり。
「火の用心」の掛け声も、謡の調子になってしまう。
番小屋にようよう戻ってくると、黒川先生が、娘が持たせてくれたのでこれで温まりましょうと酒を出す。
それを見て、年かさなのになんてことを、と怒る月番。ここをどこだと思っているんですか、役人が見廻りに来るんですよ。
月番が、こちらにお寄越しなさいと言って、ふくべの酒を土瓶に入れてしまう。ふくべの酒はご法度だけど、土瓶の煎じ薬なら問題ありません。実はあたしも持ってきた。
猪肉を持参し、背中に鍋をかついできた人までいて、たちまちしし鍋パーティの開始。
そこに役人登場。慌てて隠す旦那衆たち。ただいま煎じ薬を皆でやっておりました。
役人、手前も最近風邪気味だ。煎じ薬を分けて欲しい。もう仕方ない、覚悟を決めて煎じ薬を差し上げる。
役人一杯やって、これは大変結構な煎じ薬である。旦那衆もひと安心するが、煎じ薬のおかわりを求める役人。これじゃみんな飲まれちゃう。
お役人さま、申しわけありませんが煎じ薬を切らしております。
なに、それではもう一廻りしてくるから、それまでに二番を煎じておけ。

噺を聴くたび、日本のジビエしし鍋が食べたくて仕方なくなる。

「二番煎じ」の登場人物は旦那衆と、見廻りの同心である。男ばかりで、すでに色気もなにもあったものではない。
皆さんいい大人で、常識人揃い。風流ではあるが、世のルールを大っぴらに破って楽しもうとする人種ではない。
タバコの火の不始末で野球部のクラブハウスを焼いて、仲間の甲子園をパーにするアホ高校生とは違うのだ。
旦那衆たちは「山くじら」と異名をつければ、建前としてもう獣肉ではないというような、「建前を少々崩す」程度の世界に生きている。
内心では、隠れた楽しみを期待しつつ夜な夜な集結しているのだろうが、露骨にそう言ったりはしない。夜廻りも、適当に済ませてとっとと番屋に戻りたいという本音を隠しつつ、一応はきちんとやろうとしている(のではないかと思う)。
熊さん八っつぁん連中より、落語を聴く現代人の心象風景に近いということはいえる。
現代人も、なんでこんな無駄なことを思いつつ、PTAに参加してベルマークをせっせと切り取ったりするわけだし。そこになんらかの楽しみがあれば、それに越したことはないだろう。

心象風景はよく見えてくるとして、こうした登場人物と世界観で一席の噺を作ろうとすると、これはかなりハードルが高い。
簡単な解決方法は、「酒の噺」にすること。酔っ払いを出してしまえば、日常の世界観に、すぐヒビを入れることができる。
だが、そこは旦那衆。演出にもよるが、もともと酔って人前でぐずぐずになるような登場人物たちではないのだ。噺を膨らませるには、一層のハンデがある。

しかしそこに、ハンデを乗り越えなお余りあるアイテム「しし鍋」が登場する。
これをつつくシーン、うまそうに描写できれば、お客の食欲亢進に貢献し、それだけでもう、一席の価値がある。
ネギがいい。ネギばっかり食ってるように見せかけて、ネギとネギの間に肉を挟んで食べている描写があるのはウケどころであるが、まずは、猪の肉を吸ったネギがやたらと旨そうに映りますからね。

そういえば、昔読んだマンガ「かっこいいスキヤキ」で、具を順番に食べているようで、実は「見せかけのローテーション」、肉主体に食っている仲間を見て主人公が憤るというシーンがあった。
主人公はそれに対抗して、豆腐と豆腐の間に肉を挟んで食べる。
この落語から出ていたのかしら。ちなみに、マンガを描いていた「泉昌之」はユニット名で、原作担当は「孤独のグルメ」で大いに売れている久住昌之である。
「孤独のグルメ」というのも、あれもまた、一種の落語として楽しめるものかもしれない。サゲなどなくても落語にはなりますからね。食の進む噺というのはいいものである。「二番煎じ」はその代表格。「呑む打つ買う」というけれど、「食う」というのもこれらに負けていない、立派な道楽だと思う。

「食う」がいいのは、嫌がる人が極めて少ないこと。女性を敵に回すこともない。「食いもんの噺なんかしやがって!」と怒る人はいない。
「食欲を亢進させるメディア」というのはもっとあっていい。池波正太郎の時代小説など、食べ物の扱いが素晴らしいとされているが、食べ物が主役だというわけではない。
「孤独のグルメ」の話を出したけども、食べ物を前面に出したこれがTVで人気を博しているのは、当然だと思う。時代が落語に追いついたのか? まあ、落語も、食欲の沸く噺がさらに必要だと思いますが。
小泉武夫という発酵学の権威がいらっしゃるが、食べ物にまつわるエッセイでも有名だ。この先生の文章を読むと、いつもこれは一種のポルノ小説だと思ってしまう。食べ物を上手に扱うと、人間の本能がダイレクトに刺激される。
私の子供の頃、「ザ・テレビ演芸」で審査をしていた「演芸評論家」山本益博が、その後「料理評論家」と肩書を変えたときは驚いたが、今になると、なんだか非常によくわかる。

「二番煎じ」は前回述べたとおり、落語として成立するにあたっては、数々のハンデを負っている。
ハンデを軽く突破するのが「しし鍋」という飛び道具である。
ストーリー展開としては、酒があってその肴という位置づけに過ぎない「しし鍋」だが、重要性は、料理のほうがはるかに上だと思う。「二番煎じ」を聴いて、直接酒だけ飲みたくなる人がいるものだろうか。肉の味を想像して、そこにプラスする燗酒のうまみを連想するのではないだろうか。
この噺のもっとも重要なポイントは料理の存在にあると思うのだ。事件も起こらず、特異な人物も出ないこの噺の柱に料理が位置付けられている。優先順位を間違えるといけない。これは「酒」の噺ではない。
私の愛してやまない師匠の「二番煎じ」を聴くと、他の噺で使う酔っぱらいのくすぐりが入っている。楽しいくすぐりなのだが、残念だが違うなあと思った次第。
旦那衆は、ぐずぐずになる人たちではない。お上に反抗しているわけでもない。酔っぱらってふざけるのではなく、まじめに右往左往しているから面白いのだと思う。
酒の噺なら、他にいくらでもあるじゃないですか。

***

「二番煎じ」は、なによりも、料理が中心に据えられた噺だと思う。ちょっと珍しい素材であるのがハイライトになっている。
では、二番目に重要なことはなんだろう。いろいろ聴き比べて見えてきたことがある。この噺の骨格は「人情噺」なのだということ。
冗談言っちゃいけねえ。いや、本気でそう思っている。
ちなみに、「人情噺」を、「落ちのない、笑いの乏しい噺」という狭い定義で捉えるなら、そういう意味での人情噺ではない。
「井戸の茶碗」「百年目」「笠碁」「佃祭」、先日レビューした「締め込み」なども、私は(広い意味で)人情噺だと思っている。
笑いどころが多く、ゆるぎないサゲの効いている「二番煎じ」であるが、これもまた、立派な人情噺だと思う。

どこに人情を感じるか。
最も重要なのは、物語の終盤、下級役人である見廻り同心とのやり取り。
それから冒頭の、「こんな寒い日に奉公人があったかい布団に寝ていて」というボヤキを、お仲間の旦那衆がやんわりたしなめるところにも、人情噺のエッセンスが溢れていると思う。
冒頭のシーン、結構重要だと思うのだ。奉公人が昼間働いてくれているから商売が成り立っている。
あたり前のことだが、口にして出すのは大事なことだと思う。たしなめる旦那は、奉公人にそういう感謝の念を常に忘れていないはずだ。見廻り同心は、「風烈廻り」であろうか。同心はすべて下級武士である。与力のような「士」ではなく、「卒」。
それでも、奉行所の三廻り(定廻り、臨時廻り、隠密廻り)は、捜査の第一線に立っていて、各方面から付け届けも多かったということだ。このあたりの知識のストックは、時代小説の受け売りです。
だが、火事見廻りと、消火活動指揮が本業の「風烈廻り」、彼らに付け届けがあったとも思えない。
配下の臥煙どもは、「火事息子」でご承知のとおり、一般町人からは蛇蝎のごとく嫌われた存在であった。旦那衆の前でにらみを利かせている同心だが、町人に命令を下す立場とはいえ、一個人としては、吹けば飛ぶような身分だ。
でも、旦那衆は同心を馬鹿にしていたりはしない。同心は江戸の秩序を末端で支える存在だし、自分たちもその一端を担っている。
旦那衆は、お上にきちんと、恐れとともに敬意を払っているのだ。自分たちが一杯やっている中、寒中をずっと見廻っていた同心にも敬服しているはず。
財産面で余裕のある旦那衆、同心を小馬鹿にすることだってできなくはないが、そこまで人間の小さくできた人物は出てこない。
こういった人間関係の中で、企図したものでなく、たまたまお酒と食べ物を通じて心の交流が生まれた。ここが「二番煎じ」の肝だと思うのだ。

***

「二番煎じ」は「食べ物の噺」であるというのが前々回の結論。そして、「人情噺」であるというのが前回の結論。
もちろん泣かせる場面などないが、噺の骨格、「人情」を粗末にしてやたらと笑いを取りに行くと噺がゆらいでしまうと思う。武士への反感、公権力への反発が背景にある噺ではない。だから、ふんどし漬けになったしし鍋を同心に食べさせるにあたっても、そこに町人側の「してやったり」の気持ちはない。
支配階級とのちょっとした心の交流を描く噺だから、上の立場を侮るムードはよくない。
多くの演出では、宗助さんの尻の下から出てくるしし鍋につき、そのことを内緒で同心に食わせるわけだが、いささか危うい。
さらに、「ふんどし」で違う風味が付いたなどという演出は、よほど丁寧に事象を描かない限りはやらないほうがいいと思う。汚いからではなくて、せっかく生まれた交流を、一方的にシャットアウトしてしまうマイナスが大きいのではないかな。

柳家喜多八師の演出など、まさに人情に溢れている。鷹揚な同心は、鍋の「出どこ」をしっかり確かめたうえで、多くを語らず箸をつけている。同心も、人間の器が小さいと噺が成り立たない。
日ごろ付け届けをもらえない貧しい立場だからといって、ここぞとばかり役得に預かろうという矮小な人物では、噺のムードが台無しだろう。

この同心、洞察力が極めて優れている。入ってくる一瞬のうちに、土瓶と鍋を隠したことを見抜いている。
となると、土瓶の中身も先刻見抜いているのではないだろうか。鍋を隠したことも見抜いて、どこに隠したのかもきっと承知している。
同心がひと口、「煎じ薬」を飲んでびっくりするのが普通の演出だが、ここを淡々と「いい煎じ薬である」と語るほうが、いろいろ想像が膨らんでより面白いと思うのだ。
仮にも役人、旦那衆があまりにもふざけたふるまいをしている場合にまでこれを見逃すいわれはない。場の呼吸を瞬時で見抜き、旦那衆の本当にちょっとした楽しみだと判断したので、同心も一緒に楽しむことにしたのだろう。

そう考えると、旦那衆が酔い過ぎるのはよくない。二の組が帰ってきたら、また出かけなければならない。それを忘れてはいけない。
シャレた人を描くにあたって、「煎じ薬にはめっぽう強いほうでの」などと、「酒」というワードを隠語で隠すやり方はウケるだろうが、なるべくさらっと演じるほうがいいのでは。
「こんなに寒いのだ。酒くらい飲みたくなるに決まっておる。見逃してつかわすぞ」というセリフをのんで酒と料理を味わうというのが普通の演出だろうが、いっそ、いっさい語らないほうが、侍らしくていいのではないでしょうか。

***

「二番煎じ」の噺の骨格について、さらにいろいろつついてみた。鍋だけに。

音源がたくさんあって、聴き比べが容易である。
やはり、ある程度年のいったベテラン本格派でないとできない噺のようだ。旦那衆としての腹ができていないと、ペラペラした噺になってしまう。
ますます人情噺の気配が漂う。

黒川先生(名前はいろいろ)が最初に、「娘が持たせてくれた」ということで酒を出す。先生、まったく悪びれた様子がないので、「寒いのだから酒であったまるのはあたりまえ」という考えであることがわかる。これは旦那衆に共通認識だ。
そこを、ここをどこだと思ってるんですよと、烈火のごとく叱る月番。ひるんで詫びる黒川先生。
月番、さんざ叱っておいて、土瓶に酒をセッティングするよう指示する。
自分でも酒を持ってきているのに、そこまで怒らなくてもいいようにも思うのだが、これはシャレなのだ。
私は、こういう展開を「岸柳島効果」と勝手に呼んでいる。ドキッとさせてホッとさせる、高度なシャレである。
役人がやってきて、「煎じ薬」をひと口味わうときの状況とパラレルにもなっているので、緊張の度合いはたぶん揃えたほうがいい。ただ、月番としても、丸ごとシャレでもないのだと思う。責任の一番重い月番としては、酒を楽しむにあたっても、一本釘を刺しておきたかったのだろう。

そうだとすると、宗助さんが、背中に鍋を背負ってまでしし鍋セットを持ってきたのは想定の範囲外。月番、しまったと思っても、もうこれがダメだとは言えない。
こういうところが、この噺はよくできている。最初から、話の展開が「今日はしし鍋をつつきましょう」というものだったら、はじめからルール無視の度合いがひどすぎる。
この先も、「都都逸のまわしっこ」など、ただの宴会への道を突き進もうとする人物がいる中で、月番がなんとか抑え込もうと腐心する様子が端々でうかがえる。柳橋先生など昔の音源を聴くと、「煎じ薬」とこじつけているのは役人が来てからで、土瓶に入れた時点ではこれを「お茶」すなわち「お茶け」とシャレている。
権太楼師や雲助師などもこのパターンを踏襲しているが、よく考えたらこのほうが自然だ。いきなり、煎じ薬と見立てるのは無理があり過ぎる。
土瓶には茶が入っているのが自然なのだから、不意に役人が来たとき、隠さず堂々としていればよかったのである。隠したからこそ、役人の疑いの目が向いたわけだ。終始楽しい噺だが、新しいギャグの入れ場は乏しい気がする。
やはり噺の骨格がきっちりしているのだろう。
数少ないギャグが、かまぼこ屋の赤犬について。赤犬が匂いを嗅ぎつけてやってきたと思っているのは旦那衆だけで、実際に来ているのは役人だが。
「今度、あの赤犬食っちまおう」というギャグがある。愛犬家が引くに違いないから、ギャグの効果のほどは疑わしい。
なんとなく、志ん生が考えたギャグっぽい。事実は知りませんけどね。志ん生ならきっとウケただろう。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。