新作派の古典落語

私は、幼少の頃から「古典」「新作」をさほど区別することなしに落語を聴いてきている。
当ブログでも、古典落語と新作落語の世界観は共通している、という主張をずっとしている。

理念的にはシームレスだと思っている落語の間に、たまに断絶を感じる瞬間がある。
「喬太郎はくだらん新作なんかやらなきゃいい噺家だ」というような無責任なファンの発言にではなくて、「古典も新作も面白い」と力説する噺家さん本人に感じたりする。
「新作は面白いのに、古典落語をやるとなんだかなあ」という噺家さんが結構いるのである。

新作落語は日ごろのインプットの量が少ないため、両方やる噺家さんが高座にあがったとき、新作をつい期待してしまって裏切られる、という理由はある。しかし、いい噺が聴けるなら、それが古典落語であったって別に構わない。
三遊亭白鳥師匠の落語会に行って「火焔太鼓」が出てきたときは、かなり嬉しかった。白鳥師だと「火炎太鼓」か。
新作メインだと認識している噺家さんが、特に工夫のない古典を掛けると、結構がっかりする。
理由は、新作の噺に合わせて身に着けた語り口に、古典の語り口が乗らないということなのだろう。といったって本来、「古典の語り口」なんてないと思う。
新作落語でお客を沸かせるというのは凄いことだと思う。それのできる噺家さんが、古典落語が下手なはずがないという思い込みが、私からは抜けないようだ。
勝手な思い込みに過ぎないのに、理念的なこれが裏切られて、よりがっかりするらしい。

古典・新作、両方うまい人というと、なんといっても柳家喬太郎師匠。
たまたま同時期に、TBSの落語研究会での「宮戸川(通し)」と、NHK日本の話芸での「純情日記・横浜編」の録画がとれた。
この極端に違う噺を両方聴いて、今さらながらに、本当に幅の広い噺家さんであることを実感する。噺の違いの比較としては悪くないけど、それぞれ、さらに左右に寄った噺も難なくこなしてしまうところがより凄い。
この人に関していうならば、あまりにも幅が広すぎて、もはや1種類の「落語」を語っているようには思えない。
落語界の大谷翔平だ。両方の分野で超一流の活躍を見せる二刀流ですね。
そうなると、ピッチャーとしての喬太郎、バッターとしての喬太郎のいずれかが好きな人も出てきてしまうが、それは好みだから仕方ない。
だが、選手喬太郎に期待するのが、いちばん楽しいのではないかとは思うけど。

あとは立川志の輔師匠か。
この方は、「二刀流」という感じではない。スタイルを大きく変えているわけではないから、ホームラン王とゴールデングラブ賞の同時受賞みたいなものか。
ただ、志の輔師の新作、面白さに文句はないが、次世代に引き継がれる内容ではないと思っている。
「日常世界において通常の登場人物が活躍する落語」は残りづらいというのが私の仮説。日々、これを立証しようとしているところ。

***

そもそも、世間の人は、古典と新作についてどう認識し、識別しているのだろうか。
とりあえず、寄席に行ってみれば、どんな落語が掛かっていようがお客さんが普通に楽しんでいる場面に出くわす。講談だって普通にウケている空間だから。
「誘われて寄席に行ってみたら、面白かった」というような客が、落語をもっともシームレスに楽しんでいるのだ。
雑多な状態から生まれる秩序が寄席の魅力。新作落語はこの魅力を維持拡大するのにおおいに貢献している。
古典と新作を識別する必要は、本来はない、はず。

新作落語家とみられていて、古典も掛ける噺家さんというのは、もともと落語がお好きなのだろう。
しかし、工夫のない古典を掛けるのは、どういう心境に基づくものなのか。

  • 古典もちゃんとできるんだよというところを客や席亭に見せたい。
  • とんがった新作しか持ってなくて、寄席で掛ける勇気がない
  • 古典を徹底的に修行し直し中。新作に逃げたくない。

想像と、若干、春風亭百栄師匠の「天使と悪魔」を参照して。

いかなる理由であれ、凡庸な古典を掛けても、誰も幸せにならない気がする。
柳家喬志郎なんていう人は偉い。よくわからない新作を平気で掛けている。
よくわからない、というのは、設定がぶっ飛んでいるということではなくて、笑いを企図するツボが常人とちょいとズレているようだ。聴いたあとで、よくわからない感情が残る。
でも、平気で掛けるハートの強さが偉い。いずれ客のほうがついてくるに違いない。私もついていきたいと思う。
先人では、夢月亭清麿師匠もこういう感じでしょうかね。

古典だって、噺を作りあげる努力は新作にまったく劣るものではない。ただギャグをぶっこむだけではダメで、噺を分析して、人物描写、性格付け、セリフから全部作り上げていくのである。
そう思うと新作派には内在的な危険がある。ストーリーを作ることにだけ努力して、その先の演出をないがしろにしていても、そこそこウケてしまったりするわけだ。
(中には、ストーリー自体不可解な人もいますけど)
春風亭一之輔師匠など、この人が新作をやれば凄いだろうなという迫力をいつも感じさせてくれる。こういう人と同じ土俵で闘うのが本来の姿だと思う。

***

日々、理屈っぽいブログにお付き合いいただきありがとうございます。
寄席に行くときは、理屈は引っ込めて、感性だけで聴くよう心掛けている。楽しむために。
だが、うちにいて耳から落語を聴いているときは、つい理屈が勝ってしまう。
でも、理屈だって悪いものじゃない。理屈を追求しているうちに、自分の感性と理屈との矛盾に気づくこともある。そういう場合は感性が間違っているのだ。

テーマに据えた「古典がなんだかなあ、な新作落語家」とは誰のことか。

  • 春風亭昇太
  • 春風亭百栄

の両師匠である。他にもまだいるが、これ以上名は出さない。
どちらも好きな噺家さんである。だからこそ、これらの人の「凡庸な」古典落語を聴いて残念に思っていたのだ。
しかし、理屈の耳をフルに働かせて噺を聴いているうちに、この残念さ、自分の中でかなり回収できた。
要は、「古典と新作とを区別しない」体でもう一度、ふたりの古典落語を聴いてみたのである。
サンプルは、以下のとおり。

  • 昇太「短命」「壺算」
  • 百栄「手水廻し」「疝気の虫」

まず、昇太師。
新作落語が好きで、柳昇が好きで、柳昇一門の人すべて好きな私である。笑点は見ていないが、昇太師が嫌いなことは全然ない。のだが。
昇太師の古典落語を聴いて、面白いと思ったこともなかった。
先日も、「二番煎じ」について書くために、昇太師の噺を聴いていた。正直、辛かった。
「二番煎じ」は、登場人物が「大人」の噺である。それを、新作で「子供っぽい大人」をしばしば主人公に据える昇太師の喋りで聴かされると、これがもう、「混ぜるな危険」という感じであったのだ。
それがあって、「二番煎じ」からの流れで、おとといこのテーマを始めた次第。

しかしだ。この「二番煎じ」は「凡庸」なのか。よく考えれば、絶対に違う。
工夫せずに、逃げて演じている古典落語でないことだけは確かだ。
これは、昇太師が、自己の新作での演じ方を、古典落語に落とし込んだものなのだ。師は、新作で培った技術で古典落語をねじ伏せようと、確信的にやっている。
師には、「新作が作れれば古典なんて簡単だ」という哲学があるのだろう。そしてこの哲学は、私の思い込みとも本来一致しているのである。
では、なぜ気持ちの悪さがぬぐえないのか。それは、「古典落語はこういうものだ」という呪縛から、私自身が逃れられていないからだ。喬太郎師のように、「二刀流」のアプローチで古典に照準を合わせられる人がいると、さらに呪縛が深まったりする。
だが落語は自由なものなのだ。昇太落語も、落語に内在する自由さから生まれてきたものだ。
その自由さをよく味わわず、自分の狭い見識の中の「古典落語」に合わないからといって拒絶する、これはよくない。
昇太師は修行時代に、打ち上げでよく、「あんな噺をしてちゃダメだ」と、祝儀もくれない年寄りのファンに因縁をつけられたという。そんな老害ファンと同じ聴き方になってしまうのはよくない。

***

笑福亭鶴光師匠も言っている。
「下手上手の前に、まずスタイルがある。面白さ、うまさはスタイルの後に付随してついてくる」。

春風亭昇太師匠もスタイルが確立している噺家さんである。
ハイテンション&ハイトーンでフレーズを繰り出しまくる。登場人物は、だいたい躁病である。
地方の落語会で、昇太師が「壺算」を掛けたところ、お客がこれを昇太師自作の新作落語だと思い込んだというエピソードがある。昇太師にとっては、してやったりだそうで。
このエピソードを聴いて、落語のわからん客だなあと思っていた。しかし今回改めて私のコレクションから「壺算」を聴き直してみたが、なるほどであった。初心者を舐めてはいけない。
ストーリー自体は古典落語のそれを外れていないのだが、知らずに聴けば新作と思ってもおかしくない内容だった。
カメが欲しい弟分が、もう少しマケろと店主に密着して耳をなめたりするギャグが入っているが、それゆえに新作ぽくなっているわけではない。
喋りのスタイルが、完全に新作と同一なのだ。新作で培ったスタイルで古典をねじ伏せている。
全ての古典落語について、昇太スタイルがハマるわけではないだろうが、こと「壺算」に関しては、新作と同様、完全に手の内に入っている。
こういう落語を聴いて、「こんなの古典じゃない」などと言うのは野暮の極み。昇太師の新作が好きならば、古典だけ嫌うのは間違っている。
「短命」もまた、ハイテンションな八っつぁんと、テンション高めの隠居との会話だ。テンション高いものどうしで、ちゃんと成り立っているではないか。

次に春風亭百栄師匠。
この人は、新作志向であったわけではないと聴く。古典をやるのに躊躇はないのだろう。
寄席で続けて、「強情灸」と、漫談を聴いてどちらでもガックリした覚えがある。ヒザ前で掛けた漫談も、いつもやってるマクラのままだった。
この師匠は、粋ではないし、乱暴でもないし、色気もなく、与太郎でもない。なんでも演じられる、ほどのよい芸でもない。不思議スタイルの新作がいちばん向いているようにも思う。
コレクションから「疝気の虫」を改めて聴いてみた。
最初聴いたときはピンと来なかったのだが、改めて、新作・古典の区別を意識しないよう努力して聴いてみたのである。
わかったのは、「古典落語」だからといって特殊な肚で演じているわけではないということ。そして、マンガチックな「疝気の虫」は、百栄師には向いている演目だ。

***

落語の演じ方にもいろいろスタイルがある。
古典落語の場合、まずは先人から教わった通りに演じているうちに、噺が肚に入ってきて、やがて内側から工夫ができるようになる。
新作落語の場合は、噺が先にできているから、自分自身で外からいじっていく。すでに演者のいる新作であっても同様。
私は演者ではないので想像するしかないが、まあ、大きく分けるとそういうことではないかなと思う。
そして、新作落語家の場合は、古典落語に対するアプローチがどうしても新作寄りになっていくようだ。
古典落語をねじ伏せる体力があれば、新作と同じように、素材として噺を自分の手のうちに入れることができる。
体力がそこまでなければ、先人が工夫を積み重ねてきた古典落語の厚みにあっさり跳ね返されてしまうこともある。

こうしてみると、古典新作どんな噺に対しても、極右から極左まで様々なアプローチ手法を持っている、柳家喬太郎師の天才ぶりが改めてクローズアップされる。
ただ、「スタイル」というのはある程度固定され、共通しているからこそスタイルである。喬太郎師までいかなくても、ちゃんと「スタイル」は持てるはず。

百栄師に戻る。
「疝気の虫」は、古典落語の中では設定が図抜けている。日常の世界と、疝気の虫の住む異世界とをつなぐ噺。こういう噺が存在するので、落語は自由なのである。
設定が突飛であるため、ギャグを入れても噺が壊れにくい。こういう噺は百栄師に合う。
疝気の虫たちが、好物の「そば」を求めて口のほうに登っていく際、「ピロリちゃん」と出会ったりするギャグが違和感なくはまる。
ただ、落語研究会の客が、どう聴けばいいのか戸惑っている感が画面の奥から漂ってくる。
私のほうは、繰り返し聴いているうちにやたら楽しくなってきたけども。

「手水廻し」は、古典らしい古典であり、こちらのほうでは百栄師らしさはあまりうかがえない。
上方言葉がやたら上手なのは感心するけど。新作落語「リアクションの家元」もそうですね。
三遊亭歌之介師の「手水廻し」は、壊し方が半端でなく驚いたものだが、百栄師は、そこまでは壊さない。
壊せばいいのにな。
マッシュルームカットと、ぼそぼそ喋りというのも芸人の立派なスタイル。これを維持するのはいいとして、このスタイルで古典落語をやろうとするなら、噺を壊すしかないのではないか。
これも想像だけども、百栄師、落語が好きすぎて、壊せないのではないでしょうか。古典落語へのリスペクトが強いのでは。
やる気になればこの師匠、髪を切って「べらんめい」な古典をやることはできるだろう。「マザコン調べ」でなく「大工調べ」を。
やる努力に見合うかどうかまでは責任持てない。

***

「新作落語家」の古典落語に対する不満から始め、少しずつそれを解消してきたところである。ちょっとしたドキュメンタリー。あるいは無計画。
再確認したことは、やはり「古典も新作も落語」であるということだ。
そもそもそこからスタートしているくせに、「新作落語家の古典」などと、わざわざ分けて聴こうとしたのはいけなかった。
噺家さんが高座に出て一席演じるにあたって、なんの演目が出てこようが落語には違いない。新作だろうが古典だろうが、その人の持っているスタイルが反映される。
そして、いいときも、ガッカリするときも、来るんじゃなかったと思うときも、もちろんある。

百栄師は、外見を含めたスタイルを早いうちから確立していたようで、それで人気の噺家さんになれた。
だが、今後古典落語のレパートリーを増やしていくのなら、このスタイルと闘っていかなければならない。
江戸っ子の喋りもちゃんとやると巧いと思うのだが、現在だとこれもギャグになってしまう。
これからどこに向かうのだろう。余計なお世話だが、キャリアの割にお年のいった方なので、老成後のスタイルを作らないと間に合わない。
10年後に人情話でしんみりさせていても私は別段驚きはしないが。
百栄師は、マクラが楽しいとさらにいいんですけどね。瀧川鯉昇、古今亭菊之丞など、マクラがやたらと楽しい古典の噺家さんに負けないでいただきたいものである。
鯉昇師は創作マクラ、菊之丞師は実体験から数々のネタを拾い続けている。どちらの師匠も、音源を聴いても寄席で聴いても、マクラがあまりカブっていない。本当に頭が下がります。

新作メインで、古典が普通に巧い人もいる。
林家彦いち師匠は、もともと新作に特化した派手なスタイルでやっているわけではないので、古典を演じるときも違和感がない。
その分、新作落語のほうのインパクトが薄れてしまうのは否めないようだ。私も聴き始めはよくわからなかったので。
古典だろうが新作だろうが、客にも聴き方の上達はあったほうがいい。
彦いち師については、当ブログで「神々の唄」を取り上げたが、今後も追いかけていきたい。

落語協会の二ツ目、古今亭駒次さんも新作メインだが、古典も巧い。
古典は「反対俥」一度しか聴いたことがないので偉そうなことは言えないのだが。
この人も、まず喋りがしっかりしているので、なんの噺でもできるようだ。
再来年になるようだが、真打昇進を楽しみにしています。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。