立川志らくの「弟子全員降格」を嗤う(上)

世間の話題に逐一コメントするだけでネットニュースを騒がす立川志らく師匠。
マスコミで売れてるのは別にいい。
だがこの人が、本業の落語に対してなにか口を開くたび、違和感を覚えてならない。
志らくはプロで、私は素人。多くの場合、素人にプロの世界のことを批判する資格がないのはその通り。
だが、「プロだ」というその立ち位置が、他のプロと違っていたら、それについて違っていることを指摘はできる。
「そんなのプロのやることじゃない」という指摘を。

今回の二ツ目弟子全員降格騒動について、世間は真二つ。
ただ、擁護のコメントのほうに、強い違和感がある。
「愛情があればいいんだ」みたいな意見も多く見られる。
そういうことじゃない。
落語を知っている、いないに関わらず、その視点もおかしいのだ。
今回の事件から見えてくる、立川志らくの噺家としての了見の「気持ち悪さ」について以下3日間論じる。

まず、「弟子の前座降格」ってそもそもなに?
立川流においては、師匠の一存で位が上がったり下がったりするのか? そんなことが許されるなんて聞いたことないぞ。
師匠の一存で決まるものなら、そもそも階級の意味があるまい?
「本当は二ツ目なのだが、前座として扱う」という意味なのかもしれないが、そうだとしても、やはりわからない。
噺家は、前座修業を終えて二ツ目になれば一人前として扱われる。一人前になった噺家のその地位を、師弟関係のみに基づいて勝手に取り上げることが許されるのか?

こんなことを、勝手にやれたのは、談志家元だけだ。
噺家はひとりではない。協会ではない立川流にだって、一応組織はある。理事会もあってその中で、噺家の身分である階級は公式に決まる。
家元は自分で一派を起こしたので、その後入ってきた弟子を煮るなり焼くなり自由。それもどうかと思うけど、そうなっていたのだから仕方ない。
実際にはかなり巧妙に、自分の意思に基づかないかのような決定の仕方もあったことは、生志師の「ひとりブタ」にも書かれているが。
ともかく、さすが家元が憑依している志らくだけのことはある。
もっとも、家元縮小版に過ぎない。
小さな権力を振りかざし、世間にアピールして自分を大きく見せたいだけの人間にしか見えぬ。

協会から飛び出て作られた立川流は、既存のルールにないものを勝手に導入することができた。上納金とか。
そんな談志だが、「二ツ目」「真打」という階級を廃止したりはしなかった。
そのような階級、噺家の世界にはあって当然で、疑問の余地などなかったということだろう。
上方落語界には階級はないが、なにもなくそうとしてなくなったわけではない。たまたま消えてしまっただけで。

そのような、協会の枠と関係ない噺家の世界を観念したとき、師匠にできる権力行使は「破門」だけのはず。
協会だろうが立川流だろうがこれは一緒。
破門は師匠の権利。後で非難されようがどうしようが、破門の事実自体は絶対。
破門は、師弟関係維持のための唯一の歯止めである。
二ツ目が破門になれば、他に引き取り手のいない限りは噺家を辞めなくてはならなくなる。所属団体の籍も通常は追われる。
志らくは、らく兵という弟子に対して「亭号取り上げ」処分もおこなっている。これも聴いたことがない。
よくいえばタブーがない。悪く言えば、噺家の世界の積み上げに無頓着。
立川流にも理事会があるのだが、なにをしているのか?
志らくも、既存の方法と違うことがしたいなら「これからは違うルールでやる」と宣言して、立川流と違う一派でやるべきじゃないか。
まるで違うルールを新たに落語界に持ち込んでいながら、落語の修業とはこういうものだと説く志らく。矛盾も甚だしい。
もっとも矛盾があっても、「修業とは矛盾に耐えること」という、談志の便利なお題目を引っ張ってくれば即解決。

続きます。

作成者: でっち定吉

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