落語はなぜひとりで演ずるのか

【2019/3/5改稿:関係者の名前を匿名にしていたのですが、別に意味がないので実名にしました】

柳家小ゑん師匠のツイッターをまとめて読んでいたら、ひとの商業コラムへのリンクがあった。

一人で全部を演じる「落語」は本当に面白いのか?

小ゑん師のコメントは一言だけ。「私、こんなこと、考えたことないなぁ。」
コラムの筆者、高橋維新は若い弁護士だそうだけど、そもそも炎上マーケティングのきらいがある。世間の若い弁護士、仕事がなくて大変ですからね。
知らなかったが、すでにラジオで太田光が真っ向から反論したらしい。ブログで反論している人もいる。まとめ記事も出ている。
大きく出遅れた。

この人の別のコラムも併せて読んでみた。
落語には「台本」があり、予定調和的に完結するものだという認識らしい。「ストーリー」の意味で「台本」と言うならば許容範囲とは思うけど。
落語が即興性を持っていることにはついては、はなはだ無知だ。そもそも、なぜ、素人落語を例に出す必要があるのか。
「大オチ」なんて世の中にない言葉を勝手に作り出しているし。サゲのことらしいですよ。
これでフィーが貰えるなら羨ましいですな。
(実際には親父さんのやってるメディアなので、無給だそうだが)
自分の専門を考えてみて欲しい。弁護士が勝手な法律用語を駆使し、勝手な法律解釈で依頼人を惑わせたりしたらまずいでしょ。

いっぽう、まとめ記事を見て、かなり引く。プロの噺家たちがツイッター上で、本気でディスっている。
自分たちの職業を否定されているに等しいから、怒りはわかる。でも、確固たる権威を持った評論家に噛みつくなら立派だが、こんなトウシロの記事を本気で責めてどうする。
どさくさに紛れて、別のコラムで批判の対象となった三遊亭円楽師までディスっている、立川志らくまでいるのはどうなのよ。先日の、名古屋の偽落語家「司馬龍鳳」の件では、大した材料も持ってないくぜに「落語を愛していればプロ」とか言って擁護していたのにな。
同業者は、プロであっても貶めていいのか。昔からそうして敵を作りまくってきている人だが、芯がまるでないなと思う。
小ゑん師の紹介の仕方が粋でいいですね。

私に関していえば、このコラム内容を怒りにうち震えながら読んだ、ということはまったくなかった。といって、丸ごと馬鹿にし、せせら笑ったわけでもない。
落語を楽しめない人がいることくらい先刻承知である。
人間、疑問を持つのは非常に大事なことである。落語に疑問を持つのもいいでしょう。そこで気付きが生まれる。
あくまでもひとつのテキストとして、ツッコミを入れながら興味深く読んだ。読み終える前、筆者の高橋維新があちこちで炎上している人だと知らなかったためもあるけれど。
当ブログで、コラムにおける疑問の解消にマジメにチャレンジしてみます。
とはいえ、以下の文章だけで否定してしまえるとも思う。そうすると、今日で終わってしまう。

§

落語は、通常座布団に座って演じる。座布団の上に座ってあらゆる情景を演じる。この演じ分けがうまい人がいるのも確かで、それができる噺家が「名人」と呼ばれるのだろう。
しかし、落語という文化のあり方はさておき、「観客の理解」という点においては、確実に、座布団に座らず立って演じるほうがわかりやすいのも確かである。

落語家がヘタな場合、座布団の上で演じられてしまうと、「今しゃべっている舞台はどこなのか」が分からなくなり、迷子になってしまう。素人落語はその典型だ。そして、どんなに演じ分けがうまい人であっても、場面が増えてゆくと、いずれ限界を迎えてしまう。名人クラスの落語を見ていても、「あれ、ここってどこだっけ?」と思わされる瞬間はある。
なぜ落語は「座布団の上で演じる」手法に固執しているのだろうか。これは、筆者が長年抱いていた疑問であった。

***

コラムの筆者、高橋維新がバカだという意見がよく目につく。
落語の知識が足りないのは明らかだ。そもそもひとへの敬意が欠落している。
しかし、バカではないと思う。自分の物言う地位を勝手に構築しておいたうえで、落語というもの(ほか、テレビのいろいろ)に絡め手から因縁をつけるその手腕、バカではできない。
バカには書けない内容のコラムに対し、下手な反論をすると、反論したほうがバカに見えてしまう。
内容が因縁つけでもなんでも、ひとつのテキストとして、マジメに論破してみたい。
論破できない部分があれば、その背景はともかく、一部正しいことになる。

「なぜ落語は一人の噺家に全てをやらせるという手法に固執しているのだろうか」
という、根本的な疑問の目線がそもそも不思議だ。主語が「落語」で、述語が「固執している」。
主語を担う「落語の神様」が、新宿末廣亭の高座から、座布団を脇によけてひれ伏す桟敷席の噺家たちに向かって、「おまえさんがた、ハナシをね、ふたり、みたりで喋るようなこたァいけねえよ」と説いている情景が一瞬目に浮かんだ。
だが、落語の手法に固執する神様などいない。
噺家さんたちは、好きなことをやっていいのだ。そして、「好きなこと」の中に、座布団をこねたり、転がって舞台から出ていったり、客とハイタッチして退場したりすることは含まれる。
ひと昔前でも、「疝気の虫」をやって、サゲで「別荘オ~」と言いながら、客席を抜けていった噺家がいる。志ん生だ。
いっぽう、ふたりで舞台に上がる、というのは噺家の「好きなこと」の中にない。それだけのことだろう。
企画もの、趣向としての二人噺、三人噺というものはあり、そちらのほうが面白ければ、そういう形式が今に続いていたに違いない。
「二人噺」「三人噺」という趣向、執筆者がそれを知っているかどうかはともかく、これがスタンダードにならないのはおかしい、というのがコラムの趣旨。
疑問を持つポイントがそもそも成立していないことを、「落語はなぜ座布団の上で演ずるか」として語ってみた次第。

***

弁護士・高橋維新の炎上コラムに、マジメに突っ込んでいく続きです。

「誰が喋っているかわからない」ので、「落語を複数でやれ」との要望は、論理飛躍で無理筋だ。これに関しては論破するまでもない。
テメエの耳のなさを、落語の構造問題にまで敷衍したら、そらプロは怒りますわね。

その前に、「誰が喋っているかわからない」という疑問が私にはよくわからない。基本技である、上下の切り分けが下手、ということを言いたいのではないらしい。
そもそも高橋維新、古典落語を念頭に置いて、「ストーリーは同じ」だという認識を持っている。
だがストーリーが同一だとしたら、仮に噺家が下手だとしても、誰が喋っているかわからないはずないではないか。
開口一番、前座の喋る「子ほめ」で、ご隠居と八っつぁんとが区別できなくて混乱するのか?
別のコラムで「猫の皿」を演じた三遊亭円楽師について、人物の描き分けがどうこうとまで言ってる。「猫の皿」って、登場人物ふたりですよ。どう間違えるの?
結局、古典落語一般について語っていながら、そもそも落語のストーリーに詳しくないのだ。詳しいフリなんかしなけりゃいいのに。
語るに落ちるである。

誰が喋っているかわからないシーンも、落語には確かにある。「ワイガヤ」の場面。
大勢の登場人物がワイワイガヤガヤやっているシーン。江戸落語ではもっぱら若い衆の出番である。
でも、そういう場面、別に、喋っているのは誰でもいいのである。
「ワイガヤ」のシーンを指して、落語の欠陥を語っているのだとしても、そうでなく登場人物ふたりの区別のことを言っているのだとしても、いずれにせよ落語を聴く耳も知識もなさすぎる。

別に、無理して聴く演芸でもないと思うけどね。
「テレビに、落語みたいなつまらない芸を出すな」で首尾一貫したほうがいいじゃないか。
「テレビで流れた時しか聴かないけど、落語なんかわかってるよーん」という姿勢よりは、ずっといい。

噺家さんの技術の巧拙を無視はできないけども、誰が喋っているのかの描き分けについては、演者よりも噺のほうの問題が大きいと思う。
大事に取ってある「柳家喬太郎のようこそ芸賓館」の、桂小春團治師匠の回にこんな発言があった。
師は、上方でユニークな新作を数多く世に送り出している噺家さんだ。新作落語の作り方についてである。

<キャラクターが多いと噺に厚みが出るが、落語の場合、声色が使えないのでわかりにくくなってしまう。そのために、キャラクターに強力な個性をあてがう。はっきりしたキャラクターを登場させると、喋るだけで誰が話しているのかわかる>

いたく感心して聴いたのだが、よく考えればこれは300年練られた古典落語でも同じことだと思う。与太郎はじめ、強烈な個性のキャラクターが多く出てくれば、人物を間違えようがない。
古典落語において、誰のセリフか分からなくて困るというシーンはほとんどないはず。

***

引き続きマジメに、炎上コラムを論破していきます。
元のコラムよりは、面白く書いていきたいものです。

本当は、マジメに論破するまでもなく、あっさりと覆せる。
疑問の出発点がそのそもおかしいということを冒頭で指摘したのだが、もっと強力な手段をふたつ思いついた。

§

落語は、通常、客に絵を見せずにすべて演じる。この見せ方がうまい人がいるのも確かで、それができる噺家が「名人」と呼ばれるのだろう。

しかし、落語という文化のあり方はさておき、「観客の理解」という点においては、確実に、客に絵を見せた方がわかりやすいのは確かである。

落語家がヘタな場合、絵を見せないで演じられてしまうと、「今しゃべっているのは誰なのか」が分からなくなり、迷子になってしまう。素人落語はその典型だ。そして、どんなに落語の見せ方がうまい人であっても、登場人物が増えてゆくと、いずれ限界を迎えてしまう。名人クラスの落語を見ていても、「あれ、これって誰だっけ?」と思わされる瞬間はある。

なぜ落語は客に絵を見せずにやらせるという手法に固執しているのだろうか。これは、筆者が長年抱いていた疑問であった。

テレビが悪いものだとは思わない。テレビで落語を楽しむのも同様。
だけど、受動的に楽しめるテレビのサービスに慣れ過ぎていると、自分からエンターテインメントに飛び込んでいく楽しみ方かできなくなる。
テレビを目の敵にする教育評論家先生がたには、テレビ育ちのわかりやすいサンプルができてよかったですね。
NHK「えほん寄席」から勉強したほうがいいよ、きっと。
絵がついててわかりやすいよ。

§

紙芝居は、通常複数の登場人物を一人の語り手がすべて演じる。この演じ分けがうまい人がいるのも確かで、それができる紙芝居屋が「名人」と呼ばれるのだろう。

しかし、紙芝居という文化のあり方はさておき、「観客の理解」という点においては、確実に、登場人物一人一人の全てに、違う語り手をあてがった方が分かりやすいのは確かである。

紙芝居屋がヘタな場合、一人で全部を演じられてしまうと、「今しゃべっているのは誰なのか」が分からなくなり、迷子になってしまう。素人紙芝居はその典型だ。そして、どんなに演じ分けがうまい人であっても、登場人物が増えてゆくと、いずれ限界を迎えてしまう。名人クラスの紙芝居を見ていても、「あれ、これって誰だっけ?」と思わされる瞬間はある。

なぜ紙芝居は一人の紙芝居屋に全てをやらせるという手法に固執しているのだろうか。これは、筆者が長年抱いていた疑問であった。

春風亭昇太師が語っていた内容だったか?
定年退職後、趣味がなく落語でも聴いてみようとやってくる人の中には、ぽかんとして高座を眺めている人がいる、という。
「噺を聴いて、情景を思い浮かべる」という脳の働きがないんだそうだ。

***

さて、噺家さんも、たまにひとりでやる落語でないものを見せたいときもある。鹿芝居やったり、住吉踊りやバンド、また漫才など。
大喜利だってそうだ。
三遊亭白鳥師が、弟弟子のたん丈さんと組んだ「裏日本兄弟」という漫才を観たことがある。内容は、まるで記憶に残っていないけれど。
昔昔亭桃太郎師も、おかみさんと漫才をするようだ。
柳家喬太郎師も漫才がお好きで、柳亭市馬師とやったことがあるらしい。
余興をふたり以上でやりたければ、漫才など、既存の形式がちゃんとある。だから、なかなか「二人噺」に行きつくことはない。

だけど、「二人噺」のことを考えてみるのは悪くない。
アニメ「昭和元禄落語心中」の中で、菊比古と助六がやっていた二人噺の「野ざらし」は、ふたりの噺家のニンの違いを描いて実に面白かったが、なかなか現実にこうハマるもんではない。
現代の菊比古っぽい古今亭菊之丞師匠は、女やら若旦那やらが上手いので、そういう噺を多く手掛けている。だが、八五郎だって、ちゃんと上手いのだ。だから、「野ざらし」だって当然ひとりでできてしまう。
とはいえ、菊之丞師の八っつぁんが、八五郎の最高峰というわけではない。
八五郎を橘家文蔵師がやって、先生とコツを菊之丞師がやれば、これは確かに面白いかもしれない。観てみたい気もする。

以下のような二人噺ができたとしたら、これがひとりでやる本来の落語と比べてつまらない、とは言えない。なにせ観たことないんだから。

  1. 出囃子に乗って、両側の袖から噺家登場。
  2. マクラをふたりで語る。最近こんなことがありましてね。台本に書かれたネタというより、昔の「鶴瓶・上岡パペポTV」のイメージ。
  3. 定番の小噺、または創作小噺を、ふたりの割ぜりふで話す。
  4. 本編をふたりの掛け合いで語る。アドリブをどしどし入れ、予定調和を壊す。噺家は、役柄本人になりきって、セリフの多くを即興で作っていく。

これなら、確かに面白いでしょう。
コラムの筆者がここまで考えてものを言ったとしたなら、私も敬意を払いますよ。
ひとりとふたりの違いってなんだろう、と考えて、上の4を入れてみた。ひとりの場合に比べスリリングになるはず。

***

炎上コラムにマジメに対応し、「二人噺」のありようを検討してきた。
ただ・・・・・・面白そうではあるし、私も見てみたいのだけど、形式として漫才・コント、そして芝居ともろカブリですよね。
結局のところ、「二人でやったら、落語でなくて漫才だろ」という反論が、一番ストレートだ。みんな最初からわかってる結論なのだけど。
ロジックとしては、「講談」にだって、なんでふたりでやらないのか、と言えてしまう。でも、そこからなにも生まれない。落語のほうが、まだ二人噺の可能性があるという程度。
具体的に「面白そうだからやってみたら」、という提案ならいいけれど、出発点の間違った論理でもって「なぜこうしないか」と上からものを言われたら、やはり愉快ではない。

さて、解決していない最後の疑問は、「落語をひとりでやることが、質の向上につながっているか」である。
「他の中間の疑問が破綻している以上、この質問にも答える前提を欠く」というのも、答え方ではある。
だが、この疑問だけ切り離すならば、ここにだけは論理の飛躍はない。
これに直接回答せずコラム内容に非難だけしても、「最後の筆者の質問に答えていないではないか」と言われてしまいかねない。
なかなか狡猾な構成ではある。
そして案外、マジメに答えようとすると難問だ。

誠実、かつ論理的な回答は、「二人(以上)噺というものをちゃんと聴いたことがないので、比較して結論の出しようがありません」。
つまりコラム筆者の質問に、反論はできない。
最初から反論を拒否している狡猾な質問なのだから、これで正解。

先に挙げたような芸を噺家さんたちが精一杯、50年くらいやってみたうえで、ひとりでやる落語に比べてつまらないということが立証されれば、コラムに反論できる。
見ないうちに、論理を駆使して反論することは、できない。

ものを知らずに偉そうなことを言う、コラムの筆者のことは到底好きになれそうにはない。
「やかん」の先生じゃあるまいし。本物の「やかん」の先生は芸があるからいいけれど。
ただ、当方にとって6日間も持つ、思考実験のテーマを与えてくれたことには、率直に感謝したい。
少なくとも、「落語は二人以上でやるべきなのではないか」、という疑問提起は、バカげたものだとしても、固定観念に凝り固まっていては生まれない発想だ。私は考えてもみなかったのだから。
「人工透析患者は殺せ」と言った長谷川豊よりは、ちょっとだけ賢い人だと思う。
ちょっとだけね。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。