柳家小三治を批判的に聴く

「柳家小三治」、生ける人間国宝である。落語協会の前会長であり、春風亭一之輔他の真打抜擢を実行した。

実をいうと私、小三治師匠を特に好んでは聴いていない。私の聴く「落語」というふわふわとしたものの中心にはこの人はいない。
でも、みんながみんな小三治を褒める。好きでないと言うだけでも、もののわからない人間だと思われるに違いないから勇気がいる。
ただ、批判のための批判でなく、分析していくなら建設的だろう。
その結果、好きになれるかもしれない。そこまでいくのは難しそうだが、楽しくは聴けるようになるかもしれない。
または、論理的に否定ができるかもしれない。
先日も、いまひとつ好きになれなかった「昇太の古典」を克服したところである。理屈を追求していくと、感性を修正できることもある。

落語研究会の「青菜」の録画が録れた。早速聴いてみたが、どうも楽しく聴けない。
もちろん小三治師にだって出来の良し悪しはあろうが、そういう問題ではなくて、私の感性のフィルターの上を、うわっ滑りしていく感じなのだ。
マクラがほぼなかったので、それでガッカリする人もいただろうが、そんなレベルの問題でもない。
ちなみに、小三治師匠のマクラにも興味を持ったことがない。
別に、長い「マクラ」そのものはなんら否定しない。楽しいマクラだったらいいのだ。これもいずれ検証してみたい。

以下、疑問を持った点について。

§ 植木屋が饒舌

職人が饒舌なのは、落語では普通だ。男の喋りが不毛とまでは思わない。そう思ったら落語の否定だろう。
だが、なんだかムダに「おしゃべり」に映る。
これは、人間を立体的に描けて成功なのか?
「柳陰」のくだり、「鯉の洗い」のくだり、喋りすぎて、もののわかった小三治の中身が出てきてしまっているように思った。
グルメな職人なのである。「鯉の洗い」を食べるのが初めてなのに、わかってしまっている。
植木屋の了見でなくなってしまってはいないか。「狸をやるなら狸の了見になれ」という柳家の教えからしてどうなのか。

§ 旦那の「隠し言葉」の説明

奥方と旦那とのやり取り「鞍馬から牛若丸が出でまして、その名も九郎判官」「なら義経にしておけ」について、小三治の旦那は、植木屋に対し、このやり取りがアドリブであることを強調している。
そんな演出は聴いたことがない。
一般的にはむしろ、旦那と奥方があらかじめ、「こういうときにはこうする」という約束を交わしているように聴こえる。
もちろんよく考えれば、青菜という特定食材について打ち合わせをしておくなんてことはあり得ない。誰の噺であろうがどんな演出のもとであろうが、アドリブでないはずはない。
小三治は、もんのすごおくアドリブを強調している。植木屋に、「とっさの、とおっしゃいましたね。ゆんべのうちからなんか考えてたんじゃないでしょうね」と再三くどく言わせている。
わざわざ強調するのだから、小三治の中に、既存の演出への疑問があるのだろう。
でも、誰も取り上げないということは、つまり重要なポイントではなかったからかもしれない。そういうところをさらっと聴くのが落語のよさだと思うのである。
個人的な感想としては「野暮だなあ」。

「青菜」という噺に、そんなに解説が必要なのだろうか?
そもそも、友達を家で迎えるにあたり、「ときに植木屋さん」と呼びかける植木屋なんてこの世に存在しないのである。
そんな奴いねえよ、というナンセンスぶりが落語になり、昔から人を楽しませてきたのだ。

今日のブログは、書いていて自分で楽しくないですね。しかも共感を得られなさそうだし。

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好きでない噺を、ブログを書くために聴くのは結構辛いものだ。誰に頼まれたわけでもないのに。
ともかく、「青菜」を繰り返し聴く。小三治コレクションは意外とあるので、他の噺も聴く。その先になにかがあることを期待して。

気になる箇所の続き。

§ 女房との関係

女房の悪態が、いちいち亭主思いに感じられる。じゃれ合っていて、いきなり夫婦仲がいいのだ。
世間で掛かる「青菜」に欠陥があるとしたら、どうして女房が、好き好んで押入れの中に入ってくれるのかがわかりにくいという点だ。私なんかは、そこも含めて聴き手の解釈だと思うけどね。
要は、女房が亭主思いだから、遊びにつきあってくれるのだろう。
ならば、夫婦仲がいい演出というのは間違ってはいない。噺の本質を突いた、ストレートど真ん中の剛速球だといってもいい。
だけど・・・落語で、長屋の女房に罵られるというのは、あれは聴き手のいいカタルシスになっていると思うのだ。そこに普遍性があるから支持されて、よく出てくるシーンになっているので。
女房がちゃんと罵ってくれないと、そこにカタルシスが生まれない。とてももやもやする。

§ 辰公との関係

女房と同様、友達とも仲が良すぎる。辰公は、植木屋の遊びを受け流してあまり逆らわない。
ここだって、ある程度憎まれ口を利き合うのが、正しい江戸っ子なのではないか。
「友情」を描く天才だった師匠、五代目小さんであれば、友情でも噺が持つかもしれない。
でも、小三治師は師匠と当然ニンが違う。小三治で友情をやられると、やっぱりもやもやする。
噺の本質を見抜いて工夫を入れること自体に、私は悪い感情は一切持っていない。ただ、その方向性が合っているのか。
少なくとも、私には響いてこない。

保存していないのだが、かつて売り出し中の三三師を特集したテレビ番組で、小三治師が語っていた内容にはいたく感心したものだ。
端的にいうと、演ずるにあたって、「思いを内に秘めて、外に出さない」「笑わせようとしない」ということだ。
目先のギャグで笑わせようとしないのはいいとして、前者については、今回の「青菜」を聴くうえで違和感がある。
どうしてこの植木屋はやたらと饒舌なのだろうか。どうしてこんなに、自分の考えを喋りまくるのだろうか。
家に帰ってからも、旦那がどうであったか、奥様がどうであったかにとどまらず、そのときの自分の内心をとめどなく吐露する植木屋。
植木屋が旦那や女房に対して饒舌であることは、結局は、演者が客に対して饒舌だということだ。
一品の噺に、そこまで過剰な説明をされても、別にありがたくはない。

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連日、小三治を聴き続ける。
なかなか好きになってはこない。慣れてはきた。
ついて来たい人だけついて来い、という芸風と裏腹に、描写が過剰だ。見事なツンデレぶり。
登場人物の心の動きを逐一説明してくださる。人間の内面描写をしない、ハードボイルド小説だけが文学だというわけではなく、尽きるところ好みの問題ではあるけれど。
生で落語を聴いていたとしても、脳の3分の1はだいたい別のことを考えている。しかし、小三治を聴くと脳内が小三治に占領されてしまう。
これで噺が好きだったら、さぞ快感だろうな。
初心者のうちに、ライブで小三治師の噺を聴いたら、洗脳されてしまうだろう。そのメカニズムは想像できる。
洗脳される機会を逸した私は、きっとかわいそうな落語ファンなのだ。

私の手元のバイブル「五代目小さん芸語録」にも、「青菜」という噺の味わい方が書いてある。「植木屋がお屋敷でのもてなしにどれだけ感動したか」を描く噺であり、また「夫婦愛」の噺だと。
そういう解説を、噺の外でピンポイントで読むと、ときにいたく感動する。
だけど、噺の中に、そういった解説のエッセンスを全部盛り込まれてもなあ。
さらっとした「青菜」であれば、どうとでも解釈できるから楽しいが、小三治師の噺、とにかく重い。
「軽い」というのは褒め言葉になる。「重い」はならない。噺家さんも、弟子や後輩に「もっと重くやれ」なんて言わないだろう。でも、現に重い。

小三治師が、落語界の最高峰に君臨しているのは事実だ。
しかし、そこにある種の共同幻想もあるのではないかと思えてならない。

三遊亭天どん師匠の新作落語「ともびき寄席」に面白いシーンがある。
セレモニーホールの休日である友引の日に開催される、素人寄席に迷い込む主人公。客は主人公ひとり。逃げられないよう外から鍵まで掛けられる。
そこで、やたらと肝が据わっている、年寄りの素人演者に出くわす。
この演者、あー、うわー、と声を出して、ゆっくりした動作で茶を飲み、にこっとしてはまた茶を飲み、鷹揚に手拭いを取り出し、開いてまたしまう。
「とんでもなく間につええな。貫禄だけは名人級だな」と客席でつぶやく主人公。
ようやく話し出したが、「なんですなあ」「なかなかにこれは」というような無意味なセリフしか言わない。
再び主人公の独白「具体的な言葉が一個もない。雲をつかむような、どっかの人間国宝みたいだ」。

***

三遊亭天どん師、一之輔師に飛び越された噺家のひとりであり、それを決めた当時の会長の小三治に、含むところがあっても不思議ではない。
そんなセコレベルの恨みの有無は知らないが、天どん師の新作落語「ともびき寄席」こそ、噺家小三治という噺家の、本質を描いた佳品に思えてならない。
権威になってしまった人への風刺にとどまらず、天どん師は「噺家らしくあるもの」の本質を、鋭い観察眼で見抜いて笑い飛ばしてみせた。
そういえば、兄弟子の白鳥師も、よく権威の象徴としての「小三治」の名前をちょいちょいクスグリに入れてくる。

天どん師の「ともびき寄席」が、小三治落語を特に鋭く斬っていると思うのは、噺に出てくる素人落語家が「内容をなにも語っていないのに、威圧感たっぷり」という点。
小三治師のマクラに私が関心を持てないのは、そこに内容がないからだ。
「CDとMD」「迷惑メール」について語っているマクラを聴いた。特異な語り口から解き放たれて聴けば、話の中身は、そこらのお爺ちゃんの繰り言だ。
あまり他の噺家さんを比較の対象にするのはよくないと思うが、これが同門の柳家小ゑん師であれば、素材がオーディオでもコンピュータでも、オタク要素を盛り込んで、マクラを素晴らしいエンターテインメントに昇華させてくれるだろう。
寄席を制圧する、独特の間の取り方についても、高座に出てなにもしゃべらず微笑み続ける瀧川鯉昇師のほうが、私にとってはずっと楽しい。
最近こんなことがあったという話題に関しては、古今亭菊之丞師が秀でている。

天どん師は、自分でも言っているがハートの強い人だ。私の好きな噺家さんは、みな肝と腰が据わっている。
逆も真なり。高座で動じない、ブレない姿勢を見せられると、その噺家さんが好きになる。
小三治師も、ハートが強いことは間違いない。現在の落語界で一番強いのではないか。
ハートの強さには敬服するが、私の感性は珍しくそこについていかない。

結局のところ、小三治師は、錯覚を聴き手に与える名人なのではなかろうか!
錯覚を与えるテクニック自体、見上げたものだ。そして、聴き方として騙される姿勢も、間違っていると思わない。落語で騙されるのは楽しい経験だ。
しかし、聴き手の喜ぶ「小三治」は、重い噺の中のいったいどこにいるのか。小三治師がいるのは、「間」の中だけだとしたら?
錯覚の正体は、「小三治がわかる俺ってすごいじゃん」ではないのか。
言い過ぎかな。

小三治師の存在を丸ごと否定するつもりは毛頭ない。
しかし、権威になってしまったこの人を、初めから落語界最高峰だと思って聴く必要はないのではないか。
そんな聴き方なら、「笑点」メンバーが落語のいちばんうまい人だと思い込んでいる世間一般の人となんら変わらないように思う。
いろんな落語があっていいのだけど、もっと楽しく、サービスに溢れた噺が私は好きだ。
そしてありがたいことに、そういう楽しさを追求している噺家さんもたくさんいらっしゃるのだ。

***

さらに毎日小三治を聴く。
長いマクラを聴いて疲れるのだが、同じものを聴いて喜ぶ人の心象風景も、まったく理解の外にあるわけでもない。
それでも、「かんしゃく」のマクラはほんとにグダグタであった。「なにが起こるかわからなくて面白い」という見方はあるとしても。
内容は、「古典落語と新作落語の違い」。
いにしえの新作落語のマクラで、新作落語全般を語られてもな・・・
<新作を作った人のところに稽古に行って、教わると、教えた人にとっては新作だが、教わった人にとっては古典になる>
だそうだ。この内容自体ポカンなのだが、さらに「すみません。いまの全部取消し。忘れてください」。なんじゃそれは。
最終的には、「新作も古典も、つまらないものはつまらないし、面白いものは面白い」という、当たり前の結論をもったいぶって語っていた。いや、もったいぶってるわけじゃないだろうが、そう聴こえてしまう語り口だから。

ちなみに、「かんしゃく」本編で大変気になったのが、ほろりとさせてくれる嫁の実家のお父さんより、癇癪持ちの亭主のほうに、はるかに小三治師のニンが強く出ていること。
そうなると、噺の爽快感は大いに薄れる。
「かんしゃく」の改作ではないかと思われる、春風亭柳昇「里帰り」に漂う気持ちのよさと比較して。

「初天神」を聴いたら、一之輔師の「初天神」の劣化コピーに感じてしまった。もちろんあり得ないことなのだけど、なぜそう思ってしまうかは説明できる。
ギャグを意図的に少なくすることで、噺が薄っぺらくなっているということではないか。
ギャグで笑わせず、噺そのもので楽しませようというもくろみ自体は、大いに賛成だ。でも、ギャグの替わりに入ったものは?

You Tube で1991年の「青菜」も聴いてみた。これはなかなか面白かった。
2016年の「青菜」との違い。

  1.  ギャグが多い
  2.  内面の描写はほとんどない
  3.  「隠し言葉」のアドリブ性に関する描写はない
  4.  女房・友達との関係性は、ごく一般的な緊張感をはらんでいる

2~4、私が苦手だといったポイントが、表に出ていないではないか!
1、オリジナルのくすぐりらしきギャグも結構多い。
つまり、普通の落語だ。
普通であるがゆえに、面白い。「落語ってこういうものだよ」という説明になる、模範的な芸だ。
そして普通であるがゆえに、コアなファンがつきにくい芸にも思える。

同じく古い音源、1989年の「もぐら泥」は、これはもう、「絶品」だと思った。
上方のイメージの強い噺だが、移植っぽくなく、まったく違和感なく聴ける。
そして、軽いのである。
この軽さをどこに捨てたのか。
いっときの名声にこだわらず、次を目指す求道者振りにおいては、妥協しない人なのだなと感心する。イチローみたいだ。

***

さて、小三治師のことがなかなか好きになれないのは、噺以前に人間に対してかもしれない。人間国宝に面識などないから、あくまでも私のイメージの中の小三治師についてとお断りしておく。
イメージに過ぎないのだから、覆せる素材があればいつでも取り入れたい。

私は、落語本体に負けず劣らず、落語界の師匠弟子の関係が大好きだ。
先日も「さん喬・権太楼」のエピソードとしてご紹介したが、五代目小さん一門の師弟関係の話など、いつも感動ものである。
この一門の温かさは、馬風師やさん喬師が引き継いでいると思う。
一門に連なる小三治師に、温かいエピソードはあまり聞かない。むしろ、弟子を半分辞めさせたことで知られている。
そのことはまあ、外野がとやかく言うことではない。師匠弟子の関係、どうあるべきかということも、口を出すべきものではない。
ただ、この師匠、師弟関係の破綻について、一切気に病んだりはしていない様子なのが、なんだかなあ。人の人生を左右する、破門という措置について、心が動かないのかなと思ってしまう。
私は噺家を志したことはないけども、もし小三治師に入門できていたとして、辞めさせられる半分のほうに入っている強い自信がある。なんの自信だ。
辞めさせられる立場から見て、人間の冷たい師匠だと思ってしまうということはある。
小三治師、将来の見込みのない人には辞めてもらうそうだ。それだけ聞くと良心的な師匠に思えるのだけど、破門されてよそで修業をやり直した三遊亭小圓朝師みたいな人も現にいるからな。
そして、残った弟子からスターが次々輩出というほど輝かしい一門でもないし。

先代小さんを例に、「人間が温かいほうが噺家として価値が上」だと思いたい気持ちはあるが、そこまで断言するのは慎みたい。
昭和の名人、三遊亭圓生も、非人間的なエピソードの多かった人だが、噺はよく聴く。

小三治門下を代表する噺家は、先日亡くなった柳家喜多八師だ。
生前の喜多八師、師弟関係について、「疑似親子なんだから、本当の親子と同様、いいときも悪いときもある。年中一緒にいたいわけではない」ということを再三発言していた。
師匠のところを辞めさせられる恐怖についても語っていらっしゃる。一方で、師匠との心温まるエピソードについては、それほど耳にしたことがない。いろいろ複雑な思いをお持ちであったようだ。

話はそれるのだけど、先代文楽・志ん生などの時代、現代から見ると意外なくらい、師匠弟子の関係は緩やかであった。師匠が気に入らないので変えてしまうということもたびたびあったのだ。でも、心酔した師匠には徹底してついていく。
それを思うと現代、師匠に破門されて即、落語人生が落伍で終了というのは、仕組みとして正しいのかなと思う。
ちなみに当代文楽師に言わせると、先代は「落語のうまいただのおじさん。神様じゃない」のだそうだ。

***

1週間の間、ずっと柳家小三治師を聴いてきた。
ひとりの噺家をこれだけ聴き続けたのは初めての経験である。好きな噺家さんだってこんなに続けては聴かない。
最後まで、心酔して聴くということはなかったのだが、それでもこれだけ聴いていられるというのは、小三治師が名噺家であることの証明ではある。

個人的には、今のものより、ひと昔前の小三治師のほうがずっと好ましく聴ける。
オリジナルらしきものを含め、ギャグも入れてはいるが、なによりも噺そのものを端正に構築している。それでウケている。
なによりも、軽さがある。
今は決してやらない定番のマクラを振って(泥棒噺で「クイクイ」とか)、しっかり笑いを取っている。落語らしい、おかしみがある。

驚いたのは、私の「落語」に対する耳を作る根幹に、この人の噺も大きな地位を占めていたと気づいたこと。
売れている噺家としてのキャリアを積んできている人なので、TV等、または親父が聴いてるCD・テープ等で、昔から結構耳にしていたわけだ。
これが落語だ、という語り口。記憶の底からそれを拾い出せたのは、なかなか感動であった。
記憶に残らないレベルで、ちゃんと私の落語耳を作ってくれている。

今、売れている噺家さんと比べると、小三治師、若いころからちょっと暗いということはいえる。
喜多八師だって、まだ売れっ子というほどでなかった(ホントかね)小三治師の「暗さ」に惹かれて入門したということだから、「暗さ」は事実だ。
しかし、それだってニンだ。太陽もあれば月もあり、月には月の個性がある。先代小さんのコピーでもやろうとしない限り、それでいいはず。
でもなんとなくだが、小三治師、この暗さをよしとせず、そこから脱却しようとしてきたのかなという気がする。
暗さを活かそうとするなら、怪談噺、人情噺の方向に進む道もあったわけだ。どうして滑稽噺にこだわったのかは知らないけども、滑稽噺をずっと手掛けるなら、払拭したほうがいいと思ったのか。
まあ、圓朝の頃ならいざ知らず、現代の落語界では、滑稽噺のほうが地位が上ですからね。柳家だし。
だから歌丸師は人間国宝になれなかったのか。これは関係ないですね。

暗さを克服する努力が長いマクラとなり、間の強さに結実したのかと思う。
今のお客が喜んでいるのだからいいのだろうが、少々違うものも感じてしまう。真に暗さを払拭しようとするなら、弟子への接し方から改めた方がよかったのではないかと、これは無責任極まりない意見ですが。

***

さて昔の小三治師の音源、「青菜」「もぐら泥」「湯屋番」「千早振る」「出来心」「提灯屋」などなど、聴いてみた。とても楽しい。
これらの噺からうかがえる噺家さんのスタイルを、今の私の基準でなんと表現するか。

  • 押さない芸
  • ほどがいい
  • 肝が据わっている
  • リズムとテンポが心地いい

落語ボキャブラリーの貧困さを思い知らされるが、それはさておき、このように言って褒める。
今、私がこうした言葉を並べる相手の噺家さんは、例えば柳亭小燕枝師だ。飄々としている小燕枝師に暗さはないが。
他には、春風亭小柳枝師であるとか。
ともに大好きな噺家さんではあるが、世間から見てメジャーという存在ではない。
小三治師は、こうしたある種玄人ウケする噺家であることに満足せず、さらに上を目指して成功したということなのか。
そのためには、暗さが妨げだったのか。

今の小三治師に暗さは感じない。それに替わって感じるのは、もっぱらケレン味だ。
今の小三治師は、一見引いているように見えて、それはそれはぐいぐい押している。客は制圧されて喜んでいる。
噺の解釈も、客に押し付けているように思う。客は、なるほどと思って感心している。
おかしいな、と思うのは、今の小三治師が「落語」について、こうあるべきと語る内容を、昔の噺がすでに具現化していることだ。「笑わせようとしない」ことや、「思いを胸に秘める」ことや。
今の小三治師と、かくあるべしと語る内容との間には乖離がある。
それとも年齢を重ね、余裕が出て、高座で遊べるようになったのか。
遊びだとして、それを好ましく感じている客に意見を言う気はない。ただ、私には合わないなと思うだけだ。

いずれにしても、今の小三治師を全面的によしとする立場には立てそうにないが、「昔はよかった」と言うのもちょっとおかしい。
ひとりの噺家さんの変化のありようを、しっかり耳に焼き付けておきたいと思う。

いずれ、続きを書きたいと思います。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。