てんてこてん

なにか古典落語の演目を取り上げて、つついてみたいと思います。
もう昨年末の放送(さん喬一門会)になるが、「柳家喬太郎のようこそ芸賓館」で流れた、柳亭左龍師の「棒鱈」がとてもよく、このところ続けて聴いている。今回はこれを。
「てんてこてん」は噺の中のワンフレーズであるが、別にこれがタイトルだって構わないと思う。

「棒鱈」、それほどメジャーな演目でもないが、忘れられない程度には掛かる噺。
一門の垣根が低くなった昨今であっても、「棒鱈」は依然「五代目柳家小さん一門」の噺のようである。聴き比べの音源としては、古今亭菊之丞師匠や、橘家圓太郎師匠のものがあるが、あとはだいたい柳家。
といって柳家を代表する噺というほどのものではなく、他の一門が、ぜひやりたいと思う噺でもないようである。
まあ、この程度の噺のほうが、つついてみて面白いこともある。

個人的に、しっくりこないところがある噺でもある。
「棒鱈」は、酒の噺に分類されており、「呑む打つ買う」三道楽煩悩のマクラを振ってから始まるのがほとんどのパターンだ。
確かに、酔っ払いの噺のように見えるのだが、なにか違う気がしている。だいたい、タイトルが「喧嘩酒」などではなく、田舎ものを意味する「棒鱈」ではないですか。
私は、「日常世界で通常の登場人物が活躍する噺」というものは、後世に残りにくいという仮説を立てている。
酔っ払いの噺で、人気のある作品が多く残っているのは、酔っ払いが日常の世界を混乱させてくれるからだ。
つまり、酔っ払いの出現により、噺の舞台は「日常世界で非日常の人物が活躍する噺」に替わる。「親子酒」などわかりやすいでしょう。
しかし、「棒鱈」に出てくる町人の酔っ払いは、ぐずぐずになっていて面白いことは面白いが、決して世界を一変させるほど強烈な存在ではない。
この噺の舞台を、日常から非日常に替えてくれるトリックスターは、町人ではない。薩摩あたりから出てきた田舎侍のほうが、はるかに舞台の変容に貢献しているのである。
左龍師の「棒鱈」がいいなと思ったのは、時間が13分しかなく噺を刈り込む必要がある中で、噺の本質が図らずもあぶり出されてきたからではないか。
そして愛嬌のある左龍師が手掛けると、この田舎侍がとても楽しいのである。

落語というのは、長い噺だけがありがたいわけではない。時間の制約がある中で、ダイジェスト落語でなく噺の肝を残すと、とても楽しいことがある。NHKでやってる演芸図鑑の落語など、重宝している。
そう思ったら、持ち時間の長い池袋演芸場ばかり行ってないで、短い新宿末廣亭にも行かなきゃいけないなと思ってきました。ちょっと反省。

左龍師の、TV用「棒鱈」に話を戻すと、例えば「芸者生け捕ってきてくれ」というシーンがない。
このシーン、必要ではないと思う。町人がこのシーンで仲居に「早くしろオ、バカ!」と怒鳴るシーンがあるが、不快だろう。
余計なところを刈り込むと、田舎侍のトリックスターぶりが突出して、より楽しい噺だと思う。

それにしても毎回、我ながら理屈っぽいブログだ。
家人が「難しい」と言って読むの止めたくらいですからね。
でも、寄席で噺を聴くときは、リラックスして楽しんでいますよ。

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「棒鱈」のストーリーは単純である。
舞台は料理屋。ここは、文字通りの「舞台」を思い浮かべてみる。
舞台上に、料理屋の二部屋が並んで、仕切られて配置されている。
この二部屋に変わりばんこにスポットライトが当たり、当たっていないほうは暗転する。
町人の部屋では、男二人が呑み交わしている。弟分は、べろべろである。
もう片方の部屋にいるのは、薩摩あたりから出てきた田舎侍。芸者を呼んで賑やかにやっている。芸者に勧められるまま、「たぬきゃあの腹づつみ」やら、「二ぃがち(二月)、二ぃがちぃはてんてこてん」やら、わけのわからぬ唄を歌っている。
町人のほうも芸者を呼びたい。おあしがないが、兄貴分のほうが出してやるということで、こちらも呼ぶことにする。
町人の部屋に芸者が来る前に、はばかりに立った弟分が田舎侍の部屋を除き、酔っぱらっているので部屋に倒れ込んでしまい、喧嘩になる。

勤番侍というのは全国から江戸に参勤交代で集まるわけだが、この噺の侍は薩摩っぽいので、なんとなく幕末の匂いがする。
もっとも、この田舎侍、品川で遊んでいるそうだから、幕末の差し迫った時代設定ではないようにも思う。
とにかく、「浅黄裏」を馬鹿にしていた江戸っ子のきっぷが出ている噺である。
お茶屋遊びの伝統があり、茶屋を舞台にした噺の多い上方落語と違って、江戸発祥の落語で芸者遊びのシーンがある噺は珍しいと思う。江戸落語の場合、遊びといったらなんといっても女郎買いだから。
特に説明はされないけど、噺の舞台は、そんなに立派な料理屋ではないらしい。職人でも飲み食いして、芸者を呼べる程度のレベル。

町人が芸者を呼ぶシーンは、カットしても構わないようなものだ。現に左龍師のTVバージョンからはカットされている。ではなぜ、このシーンがあるか。
「町人は、芸者を呼べる田舎侍を羨ましがっているわけではない」ということを明らかにしておきたいのだろう。
江戸の町人は、カネを持っていようがいなかろうが、とにかく野暮な二本差しには嫌悪感を持っているのだ。

そういう背景から出てきた噺だとして、江戸時代が終わって150年も経つと、噺が現代に残る理由というものが、新たに自然発生してくる。
現代の視点でこの噺を見ると、田舎侍は、舞台をかき乱すトリックスターに変容しているのだと思う。
左龍師の「棒鱈」の、そこが素晴らしいと思ったのだ。「弾ける田舎侍」なのです。
現代の聴き手は、田舎侍の弾けっぷりを楽しむことができる。そこに嫌悪感を持つ江戸の町人側に、淡い共感はできても、強い肩入れまではできない。
現代でも、地方ではやりにくい噺だと思う。まだ、地方のお客は聴いたら怒ると思う。
だけど、侍の側のスター性にどんどんスポットを当てていけば、むしろ地方のお客の喜ぶ噺にならないとも限らないのではないか。
芸者が困っていても、江戸っ子町人がボヤいていても、落語の客である我々は、田舎侍のひとり舞台に釘付けになっているのだから。

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「てんてこてん」、棒鱈をつついていきます。

「てんてこてん」は他愛のないギャグだけど、噺の中では重要な位置を占めているはず。だから私もタイトルにしているのです。
てんてこてんのギャグがなかったら、結構淋しくなると思う。この噺を掛ける人は、てんてこてんを歌いたくてやってるのではないだろうか。落語の演目には、それぞれこういうツボがある。
弾ける左龍師も、やっていてとても楽しそうだ。ただの聴き手である私も突発的に「にぃがちーは、てんてーこてん」と歌いたくなる。

さて、毎回繰り返し書くけども、この噺の肝は、どうみても田舎侍にある。
田舎侍は、楽しく呑んでいる。町人の、べろべろに酔っている弟分は、主役というより狂言回しである。
酔っ払いのマクラから入るというのは、狂言回しにスポットライトを過剰に当てることになるので、正しいやり方でないのでは、と思っている。
梯子を外されたような気分にちょっとなる。先代小さんが磨き上げたらしい噺に、ケチをつけるようで恐れ多いけれども。
田舎侍、いわゆる「浅黄裏」に関するマクラなど、新たにでも作ってつけるとぴったりくると思う。私も作ってみたい。

「赤べろべろの醤油漬け」「えぼえぼ坊主のスッパ漬け」に、田舎侍のトリックスター振りはよくあらわれている。
田舎侍、ちゃんと「まぐろのさしむ」と、ちょっとなまっているが日本語は使えるのである。最初からそう言えばわかるのを、わざわざ「赤べろべろ」だの「えぼえぼ坊主」だの言っているのは、侍のシャレだと思う。
この侍、自分が田舎もんだというのを十分承知のうえで、おどけてみせているに違いない。
芸者は困ってないで、「ダアさま、おからかいになっちゃ困りますよ」でもなんでも、ちゃんとツッコめばいいのだと思う。
侍の変な歌というのも、全部シャレだと思えてくる。洒落た遊び方とはいえないにせよ。
シャレにいちいち、隣の座敷でツッコミを入れている弟分のほうがよほど野暮だ。

町人の弟分が、誤って侍の座敷に飛び込んでしまうクライマックスにも、侍の人柄が表れている。
「人間の降ってくる天気でもあんめえし」。
最初から怒っているわけではないのである。それどころか、いきなり飛び込んで来た男をシャレのめしている懐の大きさがある。
最初平謝りだったくせに、シャレのめす侍にカチンときて、「あにかぁ」と言う侍に、「俺はお前みたいな弟持った覚えはない」と喧嘩を売って、「赤べろべろ」を面体にぶつける町人のほうが、倫理的にもセンスの上でも、あきらかに悪い。
この噺は、侍を愉快に描けば、成功だと思う。

ちょっと気になるのだけど、侍の変な歌その一「モズのくちばし」に、「たぬきゃあの腹づつみ」というフレーズがある。
「腹つづみ」ですよね? 「舌鼓」を「舌づつみ」と言ってしまうと、誤用とされる。
誰の噺を聴いても「腹づつみ」と言ってる。落語的には、「腹づつみ」と言わないとダメなのだろうか?
そんなことないと思うけど。ひとりくらい、「腹つづみ」と言ったって罰は当たるまい。
こういうところで躓きたくないのです。

***

「棒鱈」の演出に、勝手な希望がある。
この噺、セリフのやり取りから離れて、演者の地に返るシーンがふたつある。
ひとつ目は、弟分が酔って侍の座敷に飛び込んでしまうシーン。「障子をちょっと開けたつもりだったんですが酔って頭が重くなっているので」という、演者の説明が入る。
もうひとつ、クライマックスの喧嘩の直後。料理人が「鱈もどき」に胡椒を振る手を休め、胡椒を手に持ったまま喧嘩現場に駆け付けるシーン。
この二箇所のシーン、セリフにできるのではないか。そのほうが、噺の流れがずっといいと思うのだ。

この噺は、舞台の上の、仕切られたふたつの座敷に交互にスポットライトが当たっている設定だ。すみません、私がそう決めました。
芝居ならば、ナレーションはないほうがスムーズだと思う。
はばかりで用を足して戻ってくる弟分は、舞台の上手から、手前にある侍の座敷を覗いているイメージ。一瞬、弟分のいる廊下にスポットライトが当たる。
料理人は、舞台の最下手、袖付近でいつの間にか料理をしていて、スポットライトが当たる。

最初のほうは、こんな感じで。

・・・へへ、間抜け侍、どんなツラしてやがんだ。そーっと障子を開けてと。ど~れどれ(裏返った声で)、おおっといけねえ(ズルッという所作)、(バタン)いっけねえいけねえ、田舎侍の座敷に飛び込んじまったよ・・・

次のほうは、サゲにかかわる「胡椒」の説明が含まれるので若干難しい。けど、できると思う。

・・・はいよー、梅の間の『鱈もどき』、胡椒振ったら(振るしぐさ)あがるよー。おっと、二階どうしたい。芸者が叫んでるよ。(胡椒を持ったまま上を向いて駆け出す)、いけません、いけませんよ旦那・・・

いかがでしょう。入船亭扇遊師匠の語りを思い浮かべていただくと幸いです。

この噺、若干サゲが難しい。
「しんぺえするない。今、コショウが入った」。
「故障が入る」という言い方は一般的でない。
胡椒といえば、「くしゃみ講釈」、上方では「くっしゃみ講釈」が有名。
ひどい目に遭わされた講釈師が、笑っている客(犯人)に、「なにかわたしに故障がありなさるのか」と問うと、「胡椒がなかったさかいにトンガラシくべたんや」。
こちらと比べても、「故障が入る」はやや難しい。
「棒鱈」を聴き比べた中では、唯一、橘家圓太郎師匠だけマクラで仕込んでいた。
柳家の人は誰も仕込まない。わかりにくいとはいえ、説明が必要なほどでもないということだろう。

ほかにいいサゲがあれば、替えてしまってもいいようなものだ。
ただ、芝居として捉えたとき、胡椒が飛んで、クシャミだらけで喧嘩が尻すぼみになってしまうというのはなかなかいい絵だ。
田舎者を意味する「棒鱈」と、料理の「鱈もどき」がセットになっているのも無意味ではない。
私にもあいにく、「故障が入った」の代案は思いつかない。ただ、サゲがそのままでも、さらに絵として面白くはできそうに思う。
舞台の下手にいる料理人にも、山場でスポットライトが当たる。彼をもっと活躍させたい。

・・・おーっとオ、二階で喧嘩かい? 人斬り包丁が出てんのかい。まあ、任せときな。なに、丸腰で大丈夫かって? 包丁なんか持ってっちゃいけねえ、俺の飛び道具は、この胡椒だ・・・

つまり、たまたま胡椒が入ったのではなく、最初から胡椒で喧嘩を止めにいく。
これをはっきりさせると、よりカッコいいのではないかと思うが、いかがでしょう。
今度は、入船亭扇辰師匠を思い浮かべていただきたい。

***

「棒鱈」を聴き比べていく。てんてこてん、と軽快にまいりたいものです。

この項を書くきっかけとなった、弾ける侍、柳亭左龍師のものから。
時間は13分。末廣亭の持ち時間より短い。このことが、結果的にプラスとなっている。
冒頭の男二人のやり取り、「鯛の塩焼き」「芋蛸の蛸だけよって食っちゃって芋ばかり残っている」シーンはカット。
田舎侍が品川に遊びに行くのに、朋友の「大井」「大森」「川崎」らと連れ立っていったというギャグもカット。
芸者を生け捕ってくるシーンもカット。
このあたりは、噺の肝ではなく、カットしても味わいを損ねることはないようだ。むしろ、芸者生け捕りのシーンなど、弟分が酔って仲居に悪態をつくので、噺の雰囲気を損ねる弊害すらある。
これらのシーンカットもあって、すっきりした、くどくない、他愛のない酔っ払いができあがる。とにかく軽いのがいい。
最後、軽い酔っ払いでは、命のやり取りの喧嘩までするのは不可解だという解釈もあるだろう。
だが、私のバイブル「五代目小さん芸語録」にも記載があるのだが、喧嘩のシーン、客が本当に怖がるようでは噺としてダメなのだそうだ。客を心配させてはいけない。
よくない例として、「ガマの油」で腕を切って「いてっ!」と本気で痛がったり、「船徳」で、岸に上がる際に足を切ってしまったりする演出が挙げられている。
そして、左龍師の軽い侍がまた素晴らしい。
「しーがちーはおしゃかーさま」で、手のしぐさで釈迦を表現するが、これが左龍師のアルカイックスマイルにピタッとはまって楽しい。絶対、狙ってるな。
芸者も軽い。軽薄でなく軽やか。
唯一、兄貴分の寅さんだけが軽くなく、全体のトーンを引き締める重しになっている。

先代小さんのものが聴きたいのだが、ないので柳家小三治師から聴いていく。
(その後聴けたので、別途小さんカテゴリで取り上げています)
酒のマクラが長い。ありきたりの、酒断ち願掛けのマクラから入っているので、ひと昔前の音源かと思う。ただ、全体的に説明過剰なので、大昔ではなさそうだ。
それにしても、小三治師の「棒鱈」、全体のトーンが暗い。暗いニンが悪いとはちっとも思わないが、この噺に向いているようには思えない。だいたい、今はこの噺やらないだろう。
噺の初めから、いきなり弟分、湿っぽい。料理屋に来たのも、なにか思い詰めたところがあって、嫌がる兄貴分の寅さんを無理に誘っている。こういう演出もあるけれど、湿っぽくする意味がまったくわからない。
そこにおかしみがあればいいのだが・・・悪酔いの理由づけにしかなっていないように思う。
暗いニンの人には、「てんてーこてん」が乗り切れなくてキツイ噺だと思う。現に小三治師の「てんてこてん」では客は笑わず、芸者の「あたりまえの唄ですね」で初めてウケが来ている。
そして、くどい。「てんてこてん」の意味がわからない妹芸者に、姉さん芸者が初午の説明をしたりしている。喧嘩を止めに来た寅さんを侍が一緒に斬ろうとしてから、芸者が助けを呼んだり。
サゲは工夫していて、「料理人が入って喧嘩もどきになった」。
面白いサゲとは言えないし、真似した人もいない。ただ、サゲはわかりやすいほうがいいという信念だろうから、そこには敬意を払う。
ただ、「棒鱈」はサゲに向かって一気にアクセルを踏んでいくタイプの噺だ。サゲの是非はともかく、終盤を間延びさせることで、失ったもののほうが多い気がする。

この噺を十八番にしている柳家さん喬師は、小三治師にくらべずっと明るい。さん喬師は、まわりを一気にパアッと明るくするというタイプの人ではないかもしれないが、じわじわと明るい。
明るい人の方が、間違いなくこの噺に合う。
この師匠も酒のマクラを振るが、「『キッチンドリンカー』って呼び名がカッコいい」という、とぼけた話で楽しい。
弟分の悪態は入っているが、嫌味がない。
最近、とみにこの師匠の噺が楽しく聴けるようになってきた。さん喬師に関しては、音だけでなくて、ビジュアルとセットで楽しんだほうがいい。なんといっても所作が綺麗なので。
幸い、「棒鱈」に関してはTVでやったコレクションがあった。

***

柳亭左龍師はさん喬門下の二番弟子だが、一番弟子の喬太郎師は「棒鱈」やらなかっただろうか?
コレクションを探したけど見つからなかった。弟分の「俺、あの唄覚えちゃった」という、フレーズをキョンキョン節で聴いたような気がするのだけど。
それでも、喬太郎師が「弟分はこうやる」「田舎侍はこうやる」というのが脳内に再現できる。侍は、おおかたの演出と違って、はしゃがずに低い声で、怒っているかのように「いちがちーはまつかーざり」とやるはず。
脳内エア喬太郎。本当にこうやったのを聴いたのかもしれないけど。
(喬太郎師、師匠の得意な噺で恐れ多くて掛けられないと著書に書いてました。弟弟子、左龍師に任せたとのこと)

柳家喜多八師のものは、師匠小三治と似ていて暗いムード。
だが、この人の場合、この演目だけではないが、暗さが妙にクセになる。
全体のトーンを下げていって、客がそのトーンの低下に慣れてくると、ちょっと上に弾みをつけてやるだけで、これが大爆笑につながるのである。
マジックみたいな手法だ。下手に真似したらきっと大怪我する。
喜多八師の真価は、お亡くなりになってからわかってきた気がする。遅いけど。
そして喜多八師、柳家の誰がやっても大同小異という感のぬぐえないこの噺に、結構独自のギャグを入れている。

田舎侍が品川で遊んだときの敵娼が、「細木屋の数子」
「琉球」を唄う田舎侍に、弟分が嘆いて、「よくああいうのが生きてるね。できれば先にくたばりてえや」
はばかりに立った弟分の独り言「寅さんも怒ると怖いよなあ。あんまり癖がよくねえなあ」

特に3つ目は大爆笑だ。「ひとり酒盛り」あたりからの拝借だろうか。柳家の雰囲気がよく出ている。

古今亭菊之丞師は、初音家左橋師から教わったそうで、柳家から直接来たものではない。
とはいえ、演出は違わない。そういう噺らしい。
菊之丞師匠は、町人でも侍でも、酔っ払いでもなんでも器用にこなす人だけど、なんといっても女が上手い。芸者の側からこの噺を締めている。
弾ける侍、という感はないけど、間に入る芸者の困り顔で笑わせる。
女を立てる芸風だからなのか、仲居に対しての弟分の悪態も控え目だ。そのほうが聴いてて気持ちいい。
これはTVの録画を見ているのだが、料理人の胡椒を振るオーバーアクションが綺麗で目立つ。芝居じみた所作はやはり達者な師匠だ。
一昨日に書いた、「最初から胡椒を武器にして喧嘩を止めに行く料理人」をやってくださったらさらに引き立つであろうなあ、と妄想。
CDのブックレットに菊之丞師のコメントがあり、「棒鱈」は楽屋で嫌われる、と書いてあった。
いろいろな要素の入った噺なので、他の噺とツきやすいからだそうで。
そういう噺なのにもかかわらず、みな酔っ払いのマクラしか振らないというのも不思議なのだけど。

1週間「棒鱈」を聴き続けた。
このブログを書くために、以前も「締め込み」や「二番煎じ」などずっと聴き続けたけど、好きな噺だと実に楽しい。
聴いているうちに、噺の肝が浮かび上がってくるのである。
さらに、頭の中に「琉球節」が住み着いてしまった。うっかりするといつまでも「琉球へ おじゃるなぁらぁ わらじ履いてえ おじゃぁれ」が頭を駆け巡る。

次はなにを聴きましょうか。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。