桂枝太郎「明烏」
大ネタが出たので仲入りになるのかなと思ったが、メクリが替わって桂枝太郎師が出てくる。
楽生さんから一之輔さんの話が出ましたが、偉いですね。
高校の同級生が同じ業界で売れたら悔しいものじゃないですか。しかも自分の師匠の席に座るんです。
でもああやって喜ぶという。
私もふたりと同い年です。ただ、高校卒業してすぐ入門なのでいちばん先輩なんですね。
一時、「枝太郎世代」という名称で売り出そうかと思ったんです。
他にも王楽さんやナイツの塙さんもそうですね。ただ、枝太郎世代で鍋をつつこうと企画したら、みんな忙しかったという。
枝太郎世代は、一之輔師もラジオで触れてたっけ。
枝太郎師は古典で、明烏。若旦那が家に帰る前に、源兵衛・太助のワルコンビに誘われるシーンが入っているのは珍しい。
枝太郎師、明烏を面白古典化している。
それはいいのだけど、クスグリの入れ方がちょっと乱暴だと思うのだ。
「お巫女頭」というワードから、「おみ、おみ・・・オミクロンは関係ないでしょ」とか。こんな地口がやたら多い。
こういう地口のギャグというものは、本筋に関係ないから浮くし、流れを止めてしまうのである。
私もスカッと系の仕事をしていて、最近ギャグにはうるさい。
笑いを強化する際に、「本筋に関係ないギャグを入れない」ことを心掛けている。
ギャグはストーリーとの関連性がないとならない。
つまらないギャグでも、悪役のギャグセンスのなさを皮肉るとか、使い方はある。
一晩明けた若旦那がいきなりやさぐれ男に成長しているなんてのはやりようによって面白いと思うし、いいのだけど、それまでに地口が多すぎてやや飽きた。
新作だと、聴き手の脳内テキストがないからなにをしたっていいのだが。
瀧川鯉橋「町内の若い衆」
仲入り後、幕が開くとメクリは「鯉橋」。受付していたので、なんとなくトリかと思った。
それは神田連雀亭のルールか。
瀧川一門には珍しい本格派。本格派だが、一門のフレーバーはしっかり漂うという。
枝太郎師が、「甘納豆食い忘れた」というギャグを入れていたことに触れる。
あれギャグなのと訊いてみましたら、本当に忘れたんですって。まあ、そんなこともあります。
コロナも収まってきて、お客さんが増えてきて嬉しいですねと。
昨日も新宿末広亭に出ましたと鯉橋師。
神田伯山さんの席で、大入りでした。久々に2階が開いてました。
桟敷も、3列ですよ。
久々に緊張しまして。時そばやったんですけど、そばを手繰る手が震えてしまいました。
今日のこのぐらいがいいですね。
鯉橋師の時そばは、師匠鯉昇ゆずりの「サゲをやらない」というすごいもの。やるバージョンもあるかもしれないが。
付け焼き刃は剥げやすいなんて言います。落語家しか言いませんけど。
商家のおかみさんの「ポマード ゴム糊」のマクラを振り、町内の若い衆。
この勉強会、基本大ネタでいいが、開口一番とクイツキに関しては軽い噺をすべしという掟があるのだろうか。寄席では普通のことだが。
これが、開口一番の「鼻ねじ」と同様、軽い絶品でした。
クスグリの工夫なんて、特にない。
聴き手の脳内テキストを、ほぼ忠実に追っていく芸である。だが、脳に刻み込まれたテキストをなぞられるたび、快感が走る。
なんでしょうね、この楽しさ。
地味な高座を褒める際には「ほどがいい」とか、「抑制が利いている」とか言っておくと、それらしい。
正直、私もしばしば使っているけども。「基本に忠実」とはさすがに言わない。
しかし、鯉橋師の高座を褒めるためには、新たなボキャブラリーを開発しなければならないなと思う。
無理やりひねり出すと、「おはなしの楽しさ」かな。
落語という形式に乗って楽しい噺を語ることが、すなわち楽しい。
・・・なにも語っていないけども。
よってたかって赤ん坊をこしらえていても、いやなムードは一切なかった。
いい雰囲気でトリへ。
三遊亭鳳志「百年目」
残っているのは、三遊亭鳳志師。
今日のメンバーはみな、好き嫌いとは別になじみ薄めなのだが、その中では最もよく聴いている人。
亀戸で何度か聴いたこの本格派が気に入り、独演会「鳳志十八番」にも行った。
もう1年半前だが、会場は同じ日本橋亭だった。
落語界にも破門がありまして、と鳳志師。
当ブログの読者のみなさんが大好きな話かと思ったが、生々しい話はなかった。
破門の記録というものがありまして、談志師匠が16回だそうですよ。
上には上がいて、好楽師匠は24回だそうで。破門なんて、一度食らったらしまいじゃないかと思いますが。
破門から、商家と出世の話へ。
鳳志師はいつも丁寧だ。
商家の奉公人は、小僧さんから始まります。無給で10年働いて、お礼奉公が1年。その後が手代です。
その後番頭になります。
番頭にも、店の2階に住んでいる人と、通い番頭とがいます。
大番頭なんて人は、店のことが全部わかるわけですね。
というわけで、本編は百年目。
終いを締めくくる大ネタ。
大番頭の小言が、突き刺さってこないのが現代ふう。
奉公人にとって、本気のパワハラになると聴き手にも辛いのだが、そんなものではない。
あくまでもお店を締める役割を果たしているだけのように映る。それでいながら、嫌味な性質はしっかり伝わる。
現代の落語には、いかに生々しく語らないかというテーマがあるように思う。これはリアリズムと相反するものでもない。
そして鳳志師、ぐずぐず時間を掛けないのも持ち味。
必要なシーンを必要なだけ描写しておきながら、テンポよく場面が変わっていく。テンポはいいが、あっさりしすぎると感じることもない。
この部分に得難い個性があるみたい。
お得意様に見つからないように屋形船の障子を締め切らせる大番頭。外は桜のいい匂い。
しかし酔いがまわり、ついに開け放つ。
その瞬間、川面を埋める一面の桜のパノラマ映像が飛び込んできた。
そうか、このシーン、もともと客にも桜を味わわせる目的を持っていたのだな。
主人に遭遇して、お店に戻ってからもすべてのシーンが短め。
だが、必要な描写はしっかり済ませているので、ダイジェストを聴くような感想には一切ならない。
これは絶品でした。
今日は本格派3人がよかった。
もちろん、本格派だけで落語が成り立つわけではないので、面白落語にも注目していきたい。