「画が突然浮かぶ」落語の秘訣

落語を聴いて、情景がいきなり客の脳裏にリアルな画として浮かぶことがある。
言葉と少々の所作だけで。
そうした高座は、演者にとっておおむね成功だ。客も満足して帰れる。

今月三遊亭鳳志師から聴いた「百年目」では、屋形船の障子が開いた瞬間、川面を埋め尽くす満開の桜が飛び込んで来た。
三遊亭遊馬師の「蒟蒻問答」では、ニセ和尚が仏像の前に構える画が「ドーン」と飛び込んで来た。
しかも映像を捉えるカメラが下から上へパンしていった。ような錯覚を覚えた。

思えば不思議な出来事である。
架空の画が、客の脳裏に再現され、記憶として刻み込まれる。
この画が振り返ったときの高座の記憶になる。噺家は、大部分客の耳に訴えかけているだけなのに。

ちなみに、落語の客というものはあらゆるシーンで常に情景を想像してはいる。
演者のほうも、カミシモを切り、目線を使い、情景をわかりやすく浮かばせてくれている。
岸柳島とか、たがやなどでは誰がどこにいるのか位置関係はとりわけ重要であるし、これを描くことこそ演者のウデの見せどころでもある。
だが今日は、その常時映し出される想像の産物について語るのではない。これはこれで、芝居の花道を念頭に置いたりして、語る価値があるけれど。

今回取り上げたいのは、客の脳裏にいきなりパッと浮かぶ、想定外の映像(画)についてである。
いきなりスマホの画面にメッセージが出るようなイメージで、高座から画が飛び込んでくることがある。
先に挙げた、常時客が想像している画と根本的に異なるものではない。だが、あえて分けたい。
落語という芸能、客の協力を得て初めて完成するものであり、客には想像が求められるのは当然。
だが、客が協力しようと考える前に、脳裏に勝手に映像が映し出されると、これはかなり高揚する。

ちょっと話がそれる。この、高座の最中常時客が想像する映像をリアルに再現する試みが、NHKの「超入門!落語THE MOVIE」。
決して悪い試みとは思わないし、無粋だとも思わない。だがなんだか自分固有の映像を無理やり標準化させられる気がするため、それほどは好んでは観ていない。

突然映し出される画に話を戻す。
実際の高座を聴く機会の少ない人からすると、本当にそんなことあるのと思うかもしれない。
ごくまれにはあります。
他人の脳ミソはわからないが、私の場合、ラジオを聴いても、いきなり画は浮かぶことはないな。
聴覚だけの情報は、想像力発揮に実にいいと言う。
だが、この場合の想像力は、客の主体的なものだけだと思う。
マイクの向こうの芸人から、いきなり映像が伝わって来はしない。
それから、テレビや配信でもない。

ラジオでもっていきなり画が浮かぶことがないのは、所作が見えないからだと思う。噺家の所作は、画を浮かび上がらせるにあたって重要な役割を果たしているらしい。
もしかしたら、もうちょっと真剣に(スマホなど眺めていないで)五感を聴覚に絞り込むと、浮かぶかもしれないけど。
所作の見えるテレビでもやはり浮かばないのは、カメラが切り替わるからだろう。
演者と客が、擬似的な1対1にならないのだ。

大きな席で聴く機会は少ないのだが、大ホールの後ろのほうとかでも、やっぱり難しいんじゃないかな。
それからいろいろ話芸のある中で、種目にもよる。
講談では、いきなり画が浮かんだことはない。講談は、演者自身の語りによる説明がもともと多い。仕方ない気がする。
浪曲はそれほど聴いてないが、やはり浮かばないと思う。これは唄であるからして。
どうやら、落語ならではの現象のようである。

ちなみに、映像・画像以外が浮かぶこともある。
先日五街道雲助師の「夢金」で、雪の情景の「静けさ」が伝わってきた。
外は雪だといっても、船頭の熊さんは二階で寝ているだけである。なのに外の静けさが客に染み込んでくる。
これも、画が浮かぶのと同根ではないだろうか。

画や雰囲気を、演者が客に届けようと強く願っているのか、そこまではわからない。
ただ少なくとも、噺のリアリティを届けたいとは願っているはずだ。それが画として、あるいは空気として伝わる。
「寄席芸人伝」にも出てくるが、真夏にあえて鰍沢を掛け、雪の寒さを客に感じさせた噺家は実在したはずだ。
やろうと思えば、触感や嗅覚だって伝わるかもしれない。

話が拡大しそうなので、「画が突然見える」ことに再び絞り込む。
この秘訣は、ある程度わかってきた。
結局は、演者と客との共通認識に頼る以外にない。
百年目の桜の情景であれば、「障子の向こうは絶景」というシチュエーションを客に伝えることはできる。
客の記憶の嗅覚まで利用し。
そこまでしっかり語っておいて、噺の上で障子を勢いよく開けばいい。
いや、噺の中で実際に勢いよく引いてなくていい。演者が勢いよくこれをやればいい。
演者が、客が脳裏に浮かべた屋形船の障子の内側を、外から開いてやったのだ。

ひとりひとりに浮かんでいるのは異なる画。
しかし、見事な集団トリップに大成功。

落語はどれだけ聴いても、まだまだすごい芸である。
まったく底が知れない。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。