「浅草お茶の間寄席」の録画が毎週たまってどんどん増えていく。
2月の頭にTVKで流れた三遊亭白鳥師の「パパラギ」をようやく観たところ。
パパラギは、師匠・円丈の作品。壮大な実験作である。
ちなみにこの放送のカップリングは天どん師の「川柳・円丈」。これもまた、師匠がやっていた「金さん銀さん」の改作である。
白鳥師はパパラギを、浅草のトリで掛けている。
師匠がそうしていたように、着物を脱ぎ捨て、裸になって演じる。11月だから寒いのに。
よく考えたら、袖から登場時は肌襦袢なしで着物を着てたわけだ。
「昭和元禄落語心中」のアニメで、与太郎が着物を脱ぎ捨てて彫り物を客に見せつけた際に、世間から「襦袢はどうした」というツッコミがあったのを思い出した。
ずっと封印していた噺を、わざわざお茶の間寄席の収録にぶっつける頭のおかしい白鳥師。
そして、収録中ずっと「千葉テレビカットするなよ」「ここはカットしてくれ」「全然放映できなくなってきた」などと好き放題言う白鳥師。
その模様を一切編集しないで出す、頭のおかしい千葉テレビ。
南の島で、文明について語る白鳥師。
一見、文明批評なのだが、白鳥師に掛かるとただの漫談だ。
演説の体を崩さないので、噺の中で語る白鳥師自身の姿が客観視され、妙に楽しいけど。
変な格好をしているがゆえに、この師匠の高い話術が浮き上がってくる。
島の子よ、寄席に来いと視聴者に呼びかける。
テレビで流れるだけだと1万5千円しかもらえないんだって。
そして、噺の大部分は、キンメダイの骨が喉に刺さって白鳥師自身が死にかけたエピソード。
南の島とは何の関係もない。
実に楽しいのだが、裸になってやるわりには、その楽しさの種類はごくノーマルなものなのだった。
変わったことをやっていても、新作落語の歴史、引いては落語全体の歴史からみたときに、日常の延長みたいなもの。
私はたびたび書いているのだが、新作落語というものは落語の変種でもなんでもなく、落語のプラットフォームにしっかり載っているもの。
確かにパイオニアの円丈はしばしば、そのプラットフォームからはみ出ることを試みた。
なのに弟子が同じスタイルを試みても、ちっともはみ出ないのである。
裸の噺家を観ている客たちも、別に尖った人でもなんでもない。新作が好きといっても普通の落語ファンだし、平均年齢も普通に高い。
噺の終盤は、師匠が闘ってきた歴史を語る。
設定はふざけているが、その中身は大マジメなのであった。
古典の大師匠が楽屋にいる中で、師匠がいかに高座で闘っていたか。パソコンを持ち込んだりして。
円丈の師匠、昭和の名人圓生は円丈に言った。「古典落語は何百年持つ緑の松。新作は花で、やがて散るもの。だから古典をやれ」と。
だが円丈は語った。「花は咲いて枯れるが種が残る」と。
その種が、SWAや、もっと下の新作落語家たちだ。鯉八、吉笑というところまで。
白鳥師は噺の終盤で語る。
新作落語は古典の敵じゃないのだと。仲間なんだ。
やはり白鳥師、古典をことさらに悪く言うわけじゃないのである。私に言わせれば、新作しかやらない白鳥師、古典の要素の極めて強い人である。
でも一方で師は語る。新作落語はしばしば貶められてきたと。下手をすると今でも。
落語を自由にした円丈の功績を、高座で熱く語る白鳥師。
師匠没後の東京かわら版では、師匠の生々しい姿を弟子みんなで貶めていたのに。もちろん、どちらも本当なのだ。
最後、客席と一緒に「パパラギ」を三唱して高座は終わる。
しかし不思議な噺だ。
枠組みがではなくて、「新作落語は貶められてきた」という、白鳥師の語る歴史のことが。
師匠、円丈が闘ってきたのは事実。
もっとも師匠の場合、「ああ見えて圓生に認められた古典の語り手なんだ」と一目置かれてもいたのだ。
一目置かれていたからこそ、古典を壊し、落語の載っているプラットフォームからはみ出すことが許された。
だが、最初から新作専門であった弟子が、新作の貶められてきた歴史を語るとなると、師匠よりずっと生々しいはず。
でも全然そうじゃない。
実際弟子の使う技法は、古典落語のものとおおむね同じなのだった。
落語のプラットフォームのまんまん中にいる白鳥師が、新作落語の貶められてきた時代を語るという。
白鳥師が、「新作落語は仲間だ」と語るのが腑に落ちる。
現代ではもう、新作落語を邪道だという論評は成り立たなくなっている。寄席でもごく普通に新作落語が掛かる。
なのに架空の敵を見つけ、新作落語を擁護する不思議。
NHKで「砂漠のバー止まり木」が掛かったとき、白鳥師は大学教授に罵られたのだという。
だが現代の落語ファンは、そのような非難をすると恥をかくことまで知っている。
白鳥新作はわかりやすいし、ここから落語に入り込んだ人もきっといるだろう。
だがその多くはいずれ、古典を含めた落語の世界に引きずられていくのではないか。新作もちゃんとした落語だからだ。
そこに対立軸など実はなくて。
不思議な時代だなあと。
それでも新作の歴史がネタになるということは、フィクションとしてはまだ対立軸がなんらかの役に立つわけだ。
なんの役に立つのか、わかるようでよくわからないのだが。
現在、円丈のように新作落語をことさらに古典落語と違うものとして演じる人はいない。
だが、そろそろ第2の円丈が必要なのかもしれないな。
ただし、古典がダメだとそういう存在にはなれないという、またしても矛盾が。
ご無沙汰しています。うゑ村です
具体的にいつの瞬間というのはないかも知れませんが今は新作扱いになっている落語が猫と金魚みたいな当時は新作落語だった落語のように語り継がれて古典化するところも見てみたいですね
いらっしゃいませ。
古典と新作をあまり区別しない私なのですが、古典化する新作は、猫金みたいな古典設定のものしかないだろうなと、悲観的です。
ぜんざい公社がいつか古典になるかというと・・・
古典設定であれば、幽霊の辻のように明白な新作でも、古典のふりして出せるのでは。
とあるファンが、三重県での放送にて「パパラギ」を観た感想をツイッターに投稿しているのを読んで、やっぱりじわじわとくるよな、あの高座と思っていましたが、ついに定吉様の記事でも取り上げられ、なんか嬉しいです。
ロケット団の言うとおり、千葉テレビには放送コードがないんでしょうね。
僕が言うのもなんですが、芸人として適度に愉快に人生かけた新作落語を高座にかけてるのが円丈師と似ているな、と思ったのが白鳥師の「パパラギ」。
生前、『御乱心』を再読後に円丈師へHP経由でメールを差し上げたところ光栄にも返事をいただいたことがあります。同書をまぎれもない文学だと思い感激したとか意味不明のことを書いた記憶。返事の詳しい内容は差し控えますが、やはり何年経っても分裂騒動が落語家生活に影を落としているのが感じ取れるものでした。
いらっしゃいませ。
御乱心は、私もまさに文学と思いました。
ご覧下さったかわかりませんが、当ブログでもレビューしております。