Googleポータルに続けて当ブログの記事が掲載されている。
- 昇太と一之輔の「春風亭」
- 上方落語をきく会2023(上)
- 神田連雀亭ワンコイン寄席46(下・笑福亭希光「狸の化寺」)
- 「画が突然浮かぶ」落語の秘訣
よく知らないが、アクセスに勢いがあるから、Googleが自動で拾うんでしょう。
今日はそんな、ブログ自体のアクセスに関する話をひとつ。
最近、当ブログにおいてまた個別アクセスが増えてきた記事がこちら。
なんで増えてくるのかはまるでわからない。ツイッターにも目立つ動きはないし。
5ちゃんねるは読まなくなったのでまるでわからないが、流入経路を見る限り恐らく違う。
落語界の師弟関係が話題になってきたときに、繰り返し参照されるものと想像はするが。
もっとも当ブログ、これより多い累計アクセスを集める記事もあるので、4位だけど。
さらに多いのは、「金原亭乃ゝ香が「古今亭佑輔」で復帰」「三遊亭天歌、師匠圓歌をパワハラ提訴のもよう(上)」「落語協会前座・柳家小ごと破門(らしい)」。
結局、上位を占めるのは師弟トラブル関係なのだった。
ちなみに、すぐ下の記事は「ヨネスケちゃんねるで春風亭かけ橋を見る」。やっぱり。
「破門について」それからひとつ順位が上の柳家小ごと破門の記事は、生前の柳家小三治を批判したものだ。
記事を書いたのは3年前の2020年。小三治が没したのは2021年。
その頃は、小三治批判なんて世にはほとんどなかった記憶がある。
私だけは、「柳家小三治を批判的に聴く」と題した小三治批判記事をすでに書いていた。2016年に始めたブログのかなり初期の記事だ。
破門以前に、小三治の高座そのものにも疑問を抱いていたのである。極端に言うとだが、善男善女をたぶらかすだけの高座だなと。
一方的な批判にとどまるのでなく、小三治の人としてのマイナス面についても理解しながら迫っていったつもりだ。
まあ、孫弟子が連続破門を食らってからというもの、私の筆致はどんどん厳しくなっていったが。
人間国宝となった小三治は、当時神さまみたいな扱いだった。
なんとか息をしてるうちに聴いとかなきゃ、と思ったファンも多かったろう。
しかし小三治、没後2年、すっかり消えたなあ。
追悼の書籍も1冊も出ていない。
それは、本人の生前の意向も働いているのだとは思う。消えるようにいなくなりたいということも述べていたはずだ。
しかし本など、生きてるもんが読みたがるものだ。それが1冊も出ないとは。
そもそも私は、小三治本人が消えるようにいなくなりたがっていたとはまったく思わないけど。
消えたい人は、「笑わせちゃいけない」とか、語らないって。
そして事実は恐らく、プロの誰もこの人の落語論を聞きたがらなかったのだった。
談志の本がいつまでも繰り返し出版されるのを眺めていると、小三治がたちまち消えたのは意外にも思える。
だが私はすでに、生前にこの予言をしていた。当たった。
さて、当ブログの小三治批判の記事、検索にことごとくヒットするのである。
「柳家小三治 評価」「柳家小三治 評判」「柳家小三治 人柄」「柳家小三治 人間性」「柳家小三治 性格」「柳家小三治 批判」「柳家小三治 破門」etc.
大部分は、マイナスのイメージではないニュートラルな言葉。これで批判満載の当ブログに当たる。
別に世間に、私以外の小三治批判が溢れているわけではない。
それでも事実として、人間・小三治について調べようとすると、否応なしに当ブログに行き当たるという構造になっている。
私ひとりで人間国宝の評判を下げてしまったのだろうか。
といって、決して私がひとりでギャアギャア吠えているなんて思っていない。
AIの発達した現在、炎上狙いなんてムリな話。支持や共感を得られなかった記事が上位にヒットするわけはないのだ。
推測できる事実は、私の意見を世間が静かに受け入れたということなのである。
これらの記事の検索上位を奪おうとすると、別の記事を書いてヒットさせるしかない。
しかし、難しいでしょうな。すでに小三治礼賛記事を書いても、世間が受け入れないからだ。
「ああ、弟子の扱いがひどかった昔の噺家ね」になってしまう。
しかもその落語自体、ちょっとわかりにくい種類のものでもあり。
まるで理解できないほど難しい落語ではない。ただ、人間国宝になった理由を落語からストレートに読み解くのは難しいかも。
現在の状況、これはこれでちょっと怖くなってきた。
変な権力を握った感じ。
もともと、世間に忖度せずに持論を展開していただけのものが、ある種権威になってきた。
まあ、昔はアクセスもずっと少なかったし。
「破門について」を書いたころは、たぶん1日の訪問者が80ぐらいのはず。今は10倍。
まあ、半分辞めさせる師匠なんて、やっぱりおかしいのです。孫弟子まで辞めさせて。
神さまだと思っていると批判ができない。
欠陥だらけの人間であることに向き合って、初めて評価が下せるというものだ。
向き合ってそれでもなお好きだというなら、それでいいじゃないか。
(2023/3/6追記)
末尾に広告張った広瀬和生氏の本も、小三治逝去後のものです。
あと、橘蓮二氏の「噺家 小三治」もありました。
お詫びして訂正します。