いじめ・いじり騒動に想う落語の真価

カジサックことキングコング梶原がイベントで騒動を起こしたという。
私はお笑い全般は好きなほうだが、自分の語るべき領域だとは思っていない。笑いを主軸にして落語を聴いてるわけでもないし。
かろうじて自分の領域だと思っているのは、落語に隣接する漫才、コントぐらいまで。
とはいえ、TVバラエティも含め、まったく関心の外にあるわけではない。
日頃自宅で仕事をしている私、サスペンスをつけっぱなしにしていることが多いのだが、CSで放送している「めちゃイケ」「はねとび」などひと昔前のバラエティも視ている。視ると面白いしよくできているなと素直に思う。ちょっと前のフジテレビは改めてすごかった。
梶原は、その「はねるのトびら」の元メンバー。
いじりなのか、いじめなのか、周りを楽しませるために必要なアクションなのか、人の傷つけ方がひどいのか論議を呼んでいるが、実際の様子が客観的にどうだったかはよくわからぬ。ただ、梶原がお笑い界の現在において、少々残念な人だと世間に思われている事実だけは改めてよくわかった。
「いじめ」を告発する側もまた、その世間の認識を背景に、残念な梶原を公開吊るし上げにしている。
イベントをぶっ壊しても帰った勇気は称賛するが、事後の行動評価としてはお互い似たようなもんだという気もする。
それはそうと、「いまだに空気を読むことを強要する、いじめで笑いを作っているのか」という問題提起自体は、なかなか新鮮に響いた。

先日、ダウンタウン松本のセクハラネタに触れた。
セクハラネタを披露して、世間から糾弾されることにいら立ちを覚える芸人の気持ちはわかる。だが、そのいら立ち自体、明確に間違っていると私は思っている。
セクハラネタが、いつまでも万人に共感を与えられると思っている認識のほうがおかしいのである。
いじめによる笑いもそう。世間は変わる。プロの芸人、大変でも次の笑いの領域を見つけなければならない。
とんねるずはいじめの笑い全盛期を盛り上げ、生き抜いてきて、役目を終えている。
いじめではなく、双方に信頼関係のある「いじり」ならいいのだともいう。そうコメントしている芸人もいる。
だが、私は少々違うことを考えている。
「いじり」とは、いじめの笑いを受発信するにあたっての、免罪符として働くだけと思う。
「いじめによる笑い」が普遍的な存在であることは、生理的には嫌なものの、まったく否定はしない。そしてTVを視ている側は「いじり」であっても、いじめによる快としてこれを捉える。
まあ、それはいいとする。私が心底嫌なのは、いじめかいじりかという区分ではない。執拗に他人にマウンティングしていく芸人の姿勢である。
梶原のような中途半端芸人は、「笑いについて貪欲」であることと、「他人にマウンティングしたい」という欲求との区別がついていないのではないかな。そう思う。
SNSでリア従振りをアピールし、マウンティングし合う素人と、根本の欲求が同一だと私は思う。
生贄なくしては成り立たない点はどちらも一緒。

***

いじめといえば、いじめ自殺の原因に、教師がいじめをおこなっていたというニュースが。
世間は衝撃を覚えたかもしれないが、私はまったく驚かない。むしろ、教師だからいじめに加担したのだとごく冷静に判断している。
教師は、生徒を従わせなければならないという立場。そのために、弱い対象を見つけてそこに乗っかっていき、自分のほうが強いと周りに見せつけることを考える。
昔からそうだったし、今でもそう。暴力が振るえない今のほうが、教師のいじめの危険性はより高いと思う。なにも驚くにはあたらない。
森・麻生という失言政治家がたびたびやらかすのも同じ理由。
もちろん、そんなクラス運営しかできない教師はダメ教師。
これと同様、素人にやたらと乗っかっていって、その場における便宜上の縦の関係で笑いを取ろうとする芸人も、またダメ芸人。
たぶんカジサックこと梶原は、今後も同じことしかできないだろう。
「はねとび」で売れてた頃だって、漫才も含め自分でネタを作っていたわけではない。セルフプロデュース能力はもともとないのだ。
世間の変化に乗れない人が、過去の栄光を胸に没落していくのは、なにも芸能界だけのことではない。
梶原の相方、元祖炎上芸人西野の株がここに来て上がっているが、彼も悪いがマウンティング芸人に見える。
かつて読売テレビのディレクターが、今回梶原がおこなったような悪ふざけを西野にして、途中退席に至らせた事件があった。失礼なディレクターは、マウンティング芸人だからこそ乗っかろうと思ったに違いない。
今回も、やらかした相方にマウンティングしてウケ取っている。コンビ愛といえなくはないが、なんだかな。

長い前置きから、私の領域に。
結局、落語は改めていいよなあという話です。古典落語の笑いに「いじめ」の要素は非常に薄い。
一瞬ありそうに思えるものの、やっぱりない、という話を以下続ける。
「いじり」などというものもない。わずかに笑点の三平師匠がされるぐらい。
喜怒哀楽に溢れる落語の世界、登場人物の攻撃感情が誰かに向かうことは自体はざら。喧嘩もある。
だが、他人にマウンティングしにいくことはない。
せいぜい、やかんの先生や、手紙無筆のアニイ程度のレベル。知ったかぶりも芸のうち。

「饅頭こわい」は、饅頭を怖がる野郎にみんなでいじめをする噺。
だが、それは怖がる野郎が、俺はこの世に怖いものなんてないと偉そうだからである。
こやつが弱いからいじめるのではない。強くて威張っている野郎だから、仲間内の調和が崩れた。そこで、たった一点の弱点を攻めにいって逆襲し、調和を取り戻そうと思ったのだ。
結局は、一箇所だけの弱点を作った男のほうが一枚上。いずれにせよこの結末で、双方の立場はまたフラットに戻るのである。
いじめのもたらす笑いの効能という点から見てみたとき、この噺は実によくできている。いじめに必然性がある。
「一番下の階層の人間をいじめる」という落語も作れないことはない。例えば「臆病源兵衛」はそうだ。
これは変な噺で、途中からいじめの対象、源兵衛さんはいなくなってしまう。しかし、饅頭こわいを念頭に置くとその不思議さもわかる気がする。
被害者を狂言回しにしないと、いじめの構造が生々しくなりすぎるのである。まあそれでも、落語としてはごくマイナー。それはいじめの落語だからかもしれない。
メジャーな饅頭こわいのほうは、さすがに構成がずっと巧みである。

***

いじめによる笑いは普遍。存在そのものまで否定する気はないし、「いじり」と釈明してこの笑いを続けたい芸人、というかタレントの気持ちもわかる。「相手の同意があるからセクハラでない」という釈明と一緒。
だが落語をよく観察すれば、そんないじめの笑い、別に必要不可欠でないこともまたよくわかる。
歴史の長い落語の世界では、笑いも洗練されていって、角が取れていく。「ぞろぞろ」のハッカ飴みたいに。
千両みかんの番頭さんや、崇徳院の熊さんも、別に旦那にひどい目に遭わされているわけではない。「主殺し」だと旦那に言われて勝手に怯えているが、これは幻影である。
百年目の旦那も、鼠穴の兄さんも、唐茄子屋政談のおじさんも、ちゃんと厳しさの中に溢れる優しさを持っている。
「提灯屋」の提灯屋だけ、町内の若い衆に続けてひどい目に遭わされ、ちょっとかわいそうかもしれない。だが、適度に提灯屋の嫌味な描写と、それから隠居の優しさがちゃんと入っており、聴き手の負の感情は非常にやわらげられている。
寄合酒では、その場にいない乾物屋がひどい目に遭う。だが、気の利いた噺家さんは、さりげなく「後で払えよ」など付け加えている。
聴き手が、「乾物屋が可哀そう」と思ってしまうと、噺に聞き入ってもらえなくなるからだろう。いじめ要素は、落語においては、むしろ邪魔な働きをするもの。

「大工調べ」「五貫裁き」「帯久」「ねずみ」「将棋の殿様」「お菊の皿」などは、ひどい目に遭わせた側が報いを受ける。これらはまったく問題なし。
いっぽうで、登場人物が本当にひどい目に遭う噺もなくはない。
別にひどい目に遭うことを受け入れているわけではないのだから、こうなるといじめといえるかもしれない。
「くっしゃみ講釈」はいじめの噺かも。
おなじみの喜六清八は、講釈師後藤一山をひどい目に遭わす。だがその必然性がどこにあるのか、誰の目から見てもよくわからない。語る噺家さんにだってわからない。
饅頭こわいに比べると、この点やや無理があるのかもしれない。
とはいえ、くっしゃみ講釈でやってることは他愛ないいたずらレベル。悲惨さがないのは落語らしい。
「鰻の幇間」は、主人公がひどいいたずらに遭う噺。幇間・一八の実害は相当大きい。
でも、ひどい目に遭う側を描いた噺だから、悲惨さが薄いのだろう。一八もまた、欲をかいて失敗したのだから。
「豆屋」も主人公がひどい目に遭う。鰻の幇間と同様。語り手の肝が据わってないと、ちょっとやりづらいかもしれない。
ただ、この豆屋は非常に記号的なキャラである。だから、聴き手が感情移入をする必要はない。
探しても、いじめに遭う噺はこのくらいか。そしていずれも、いじめを和らげる工夫がなされている。
「棒鱈」みたいな、田舎者を馬鹿にする噺にだって、ちゃんとフォローする仕掛けがたくさんつまっている。

***

新作落語には、考えてみたらいじめを扱った噺があった。
落語ディーパーで取り上げられ、私のブログのアクセスを一挙に押し上げた「ぺたりこん」。三遊亭円丈師の噺である。
会社で机にされるダメサラリーマンは、究極のいじめを受けてついには死に至る。その後円丈師は、死なない結末に替えたようだが。
ぺたりこんは、いじめによる笑いをテーマにした噺ではない。一見、そうした構造のブラックな落語にも見えるが、最後には笑いは引いていく。
この噺からは、むしろいじめの滑稽噺を作ろうとしても、作りづらいことがわかるのではないだろうか。
多くの新作落語は、古典落語の気持ちよさを、ストレートに現代に移植して作っていることが多い。
会話の楽しさを追求し、対立しない人物関係がよく見られる。

さて、こういう心地よい落語の世界にいながら、明らかにいじめとしか思えない落語を掛ける人がいる。
よりによって人間国宝である。柳家小三治師。
当ブログでもかつて取り上げたのだが、小三治師の「金明竹」、松公(与太郎)に対するいじめのひどいこと。
もちろん、ヘラヘラしている松公のほうが全然こたえていないのは救いだが、主人の態度は、落語世界にはあり得ないぐらい冷たい。
いじめに加担するダメ教師やカジサックみたいではないか。落語の世界に似つかわしい演出ではない。
幸い、一琴、三三といった弟子たちは、金明竹をやるにしても、松公にマウンティングはしない。
同じ金明竹でも三遊亭遊馬師など、与太郎にまったく怒らないおじさんだった。とても気持ちのいい世界観。
落語界のスーパースター与太郎をいじめて、得られるものはない。
それどころか、ますます与太郎は、現代の落語においてその地位を向上させていっている。世間の、バカを差別することへの抵抗感が、その背景にあるのだろう。
落語を聴く人は、与太郎が活躍すると嬉しくなるのだ。
その意味で、三遊亭好の助師の「錦の袈裟」にはいたく感心した。
従来の型では「バカなので」数の足りない錦の布を分けてもらえない与太郎。だが好の助師は、「町内一の賢いおかみさんが付いているから」という理由に作り変えていた。
ちょっとした工夫なのだが、本来の落語らしさに忠実であり、より世界の気持ちよさが増すのである。
春風亭一之輔師の与太郎も、結構賢い。
本当に賢いと与太郎でなくなってしまうが、世間とのズレを維持したまま賢いのである。

やっぱり落語の世界は一部例外を除き根本的に幸せで、その幸せを聴き手は享受して全然構わないのだと、再認識した次第。
TVバラエティでいじめられ役として生き抜いてきた月亭芳正が噺家になったのは象徴的なことかもしれない。
落語の世界が大好きな私も、ブログでやたらと噺家さんを叩くような、世界観とそぐわない態度は極力避けようと思う。梶原なら叩いていいのかと言われると困るけど・・・

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。