先日、落語の扱う笑いの対象についていろいろ書いた。シャブ中患者からLGBTまで。
疑問を持ったら書いてみる。するといろいろなことに気づく。
結果改めて、落語の優しさについて気づかされた次第。長い時間を掛けて、古典落語は洗練されているのだ。そして、これからもなお洗練は続く。
さて、ダウンタウン松本が、 指原莉乃にセクハラギャグをぶっつけたというニュース。
釈明がまた論議を生んでいるらしい。
残念な話である。やっちまったなあ。
先日書いた文言を自己引用する。
<多様化をモットーとする現代人は、性別を超えた相手の立場についても、よく理解するよう務めねばならない。理解できなければ社会の敵として扱われるし、そのことに誰も同情してくれない。>
今回に関しては、ある程度同情する人もいるみたいだが、それもなんだかな。ある種の権威に対してひれ伏す感覚しかうかがえない。南キャン山ちゃんとか。
島田紳助は黒い交際で引退する前、女性への暴行事件を起こしている。そのときに、今のナインティナインなど当時の若手芸人は、のきなみ紳助を擁護していた。今になって掘り下げられたくないだろうけど。
業界で力を持った人だからって忖度し過ぎると、後で恥をかくやも知れぬ。
セクハラ加害となった松ちゃんは反省しつつも、お笑いの作りにくい、時代の閉塞性を持ちだしている。
いや、そうじゃないでしょう。
相手との関係性によって、セクハラになる場合もならない場合もあるというのはまったくそのとおり。だけど、この場合の「相手」というのはさしこではない。変化を続ける世間のほうなんだから。
今回の事象は、プロが披露したお笑いが、世間の認識にマッチせず不発に終わったということだ。
変化した世間の認識について、「なんでお前ら今まで通り笑えへんのや」と文句言ってどうする。
日々移動を続ける世間の中で立ち止まったまま、自己の権威に頼り、世間に対して憤るのは暴走老人のやることである。
お笑い界の大御所なのになあ。お笑いって、世間の認識をよくわかったうえで、ズレの面白さを追求していく文化じゃないの?
お笑いなんていうのは、もっとも共感を大事にしなければならないジャンルのはずだが。
誰か、それもかなり具体的な誰かを直接傷つけるセクハラギャグをぶつけておいて、共感が得られなかったからといって文句を言っても。
ちなみに、今いちばん共感が上手いのがナイツだと思っている。寄席で鍛えた人らしい上手さ。
もっとも、下ネタが多いので女性ウケはイマイチだと本人たちは言う。そういう意味では共感が完全に成功していないのかもしれないけど。
松ちゃんはエッジの利いた笑いを、理論も含めて徹底的に追求してきた人だ。でも、それゆえに世間に併せて、一緒に流れていけなくなっているのではなかろうか。
一部だけに共感を得ればいいという笑いも古来よりある。ただ、そういう笑いをいつまでも続けている人が、斯界の大家になることはない。
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世間がだんだん閉塞感に満ちていっているという、笑いの送り手の認識自体、誤りだと思う。
笑いの生まれる領域は、別に狭くなっていない。それまで笑いの領域だったものがやがてそうでなくなるというだけ。
似ているようだが全然違う。ちゃんと、新たな笑いの領域、世間の共感が生まれてくるのだ。狭くなっているという見解は、プロなのにそれに気づいていないということ。
例えば、コントで次のようなネタが可能だろう。
無自覚にセクハラを連発し、顰蹙を買い続けるが自分では全く気づかない上司なんて。こんなネタなら、ひどいセクハラでもギャグにできる。お笑いの本領発揮。
先んじて、オヤジギャグを言い続ける年配者はすでに笑いのネタになっている。
平野ノラのやってるバブルネタだって新しい領域。
セクハラ加害者もこれからどんどん、ギャグとして笑いの対象となっていくだろう。
松ちゃんの釈明は暴走老人のそれだと書いた。
その暴走老人だってまた、新しい時代においてギャグになる素材だ。
しかも、暴走老人は社会問題、世間共通の敵で、安心していじることができる。老人たちだって暴走老人は嫌いだから。
現代社会では、女性に対してもそうだが、社会的弱者に配慮をせざるを得ない。
でもそのことが、本当に笑いを不自由にしていくか?
たとえば、テレビではエロネタは封印せざるを得ないのか?
そんなことないでしょう。笑点における小遊三師匠を見てみればいい。
小遊三師が笑う対象は、スケベな男どもである。女性を性の商品として扱ってはおらず、すばらしいことに誰も傷つけていない。
「ジジババが喜んで視てる笑点なんかを比較の対象にするな」とお笑いファンは言うかもしれないが、お笑いの世界から笑点を見たそのさらに先には、落語がある。
そして、お笑いに理解が深いと思い込んでいるファンが小馬鹿にするかもしれない、笑点の小遊三師には見事な話芸がある。
欽ちゃんの笑いは人に優しいとされていたが、やがて失速していった。
だが、優しくて毒がないから飽きられたのか。これもそうではない気がする。
さて、古典落語については、時代を生き抜いてきたものだから、いちいち変えなくていいかというと、そうでもない。
よく、この例として私が取り上げるのが古典落語の演目「お釜さま」。需要がなくなれば噺は滅びるし、それは別に残念なことでもない。
お釜さまは、人情噺「藪入り」の原型である。史実を元にした、番頭の男色の相手を務めさせられている小僧が藪入りで自宅に帰ってきて、番頭にもらった金銭が発覚するという噺。
他に、厩火事というヒモ男の噺も、非常にもったいなくはあるが大幅な改訂を踏まえない限り滅びるのではないかと思っている。
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落語のマクラで披露する小噺も、時代の変化と無縁ではいられない。
今、個人的に気になっている小噺がある。酔っぱらい小噺。
酔っぱらって電車の中で、知らない女性に悪態をつく酔っぱらい。見たことのねえひどいブスだと。
ブス呼ばわりされた女性も気丈に、「あんたみたいなひどい酔っぱらい見たことない」と逆襲するが、酔っ払いも負けていない。
「俺の酔っぱらいはひと晩寝りゃ治るんだ」
この小噺のユーモアは十分理解している。「仁王」みたいにまるで面白くないというのではない。
だが、この小噺には実は逃げ場がない。
たちが悪過ぎて、被害者のほうには救いが一切ない。
世間が、酔っ払いに厳しくなっていくのは当たり前のことで、その分酔っ払い被害のほうに共感が生まれてしまう。
今、時代からズレかけている小噺かもしれない。これからズレがだんだん拡大していく。
そんなこと気にする人なんてガチガチのフェミニストだけだよと言われるかもしれない。冷静に考えりゃ、具体的な被害者がいるわけじゃないのだし。
だが、飲んべえの男性である私が実際、気になってしまうのだ。
配慮を「心掛ける」というのは理念・道徳の問題だが、「気になる」というのは感性の問題。
私が気にしているからもう掛けないでくれなんて言いたいのではない。「毒があるからダメ」でももちろんない。
でもこうやって、世間の変化というものは、落語ファンである私の意識をも徐々に変えていく。
伝統を旗印にして、変化に無頓着ではいけないのだということ。
さて、今回のテーマは以上で一応完結。だが思い立って、あとわずかだが一見関係なさそうな内容につなげてみる。
のちの世から、戦前、戦時中は落語もやりにくかったと言われる。落語の世界だと、「はなし塚」などが例に持ちだされて。
仕方ないから戦意高揚落語ばっかり掛けていた、暗い暗い時代だというわけだ。それはきっとそうなんでしょう。
でも当時の感覚そのままは、その時代をリアルに生きていた人にしかわからない。戦時下を無事乗り越えた人の感想ですら、本当に往時の空気を反映しているのかわかったものではない。
最近思うのは、戦後の感覚でもって「お笑いの悲劇」を強調し過ぎるのは、違うのではないかということ。
時流に合わせて一生懸命戦意高揚落語を掛けていた人たちこそ、まさにリアルに時代を生き抜いていたのではないかなんて思う。
どんな時代においても、芸人はみんな頑張っていただろう。ひとり、ここで時代の空気に抗うのが真の正義であろうか。
反骨者だけを誉めそやすのもどうなのか。
戦意高揚落語を掛けていた人を、戦後民主主義の立場から偏見を持って眺めてはいかんと思う。