たまには色物さんを。
昨年9月に「浅草お茶の間寄席」で放映していた漫談のナオユキを取り上げます。
芸術協会が落語協会に勝っているのは、色物さんの質とバリエーション。
浅草お茶の間寄席、突然映らなくなったことをお伝えしたが、またなぜか映るようになったので、毎週録画している。
すぐに消したほうがいいようなオンエアも多いけど。まあ、それはそれでいいじゃないか。
「ナオユキ先生」という敬称はしっくりこないので呼び捨てにさせてください。
もう10年ぐらい前になるだろうか。上野広小路亭の芸協定席で一度聴いたことがある。
それはそれは爆笑だった。だが、ちょっと面白過ぎた。
次に上がった瀧川鯉昇師が、実にやりにくそうだったのを思い出す。
そうなのだ。東京の寄席というものは、ウケりゃいいってもんじゃないのだ。
お笑い好きで、落語を聴かない人には、この感覚は理解できないかもしれない。
寄席はフルコースであり、出てくるすべての芸人がメインディッシュであってはいけないのである。
じゃ、笑いの質を下げるべき? そうではないのだ。
落語ファンで、通っているくせにこのあたりが理解できていない、残念な人もまた多いけど。
広小路亭の頃のナオユキは、客員のような感じで芸協の寄席に出ていたようだ。その後一度大阪に戻り、また東京に復活して、芸協に正式加入している。
近年の芸は、もう終わったイレブン寄席と、この浅草お茶の間寄席で聴いた。
10年前の爆笑高座と比べると、ずいぶんと落ち着いている。にもかかわらずというか、だからこそというか、明らかに芸が進化している。
実に東京の寄席にふさわしい、軽い芸になっているのだ。
大阪弁の漫才や漫談でも、東京に合う合わないはある。現在のナオユキの芸は、東京の寄席を代表するものと思う。
現在の芸に爆笑は必要ない。リズムのいい語りに、気がつくとハマっている。
ひとつひとつが短いネタだが、途中ウケないネタがあっても全然構わない。そもそも、ここでウケろという押し付けがましい芸ではないのだ。
一生懸命笑ったりしないで気楽に聴いたらいい。
ナオユキが漫才師「ダックスープ」だった頃はちょっとだけ知っている。私は当時大阪にいたので「爆笑BOOING」などで視ていた。
ダックスープという名は、マルクス兄弟の「吾輩はカモである」の原題から来ているのだろう。
TVだけで申しわけないのだが、マルクス兄弟のように洗練されている芸ではなかったという記憶。賞も多数獲っているのに申しわけないけど。
ボケのナオユキが、ひたすら毒を吐きまくる漫才だった。ツッコミの相方は相槌を打つだけで、仕事をしない。現代ではまず受け入れられない芸。
その人がまったく芸風を変え、東京の寄席に出ているのだから人生は面白い。
ナオユキがネタで取り上げるのは、人生の敗残者たち。
人生の夢破れたか、あるいは夢など最初からないのか、とにかく日夜、安酒場でぐでんぐでんになっているおっさんや爺さん。
まともに仕事もできないくせに、安酒をあおっては文句ばかり吐いている。
人生の不運を嘆くその言葉自体が、ダメの塊。
だが、そのダメな人間たちを見るまなざしが、とても優しい。
優しいといっても「それでええんや」ではない。しっかりとことんダメ振りを描写しておいて、そのダメ振りに愛を注ぐ。
これは、まさに落語の世界ではないか。寄席に合うわけだ。
ネタ自体もまた落語っぽい。立ち高座なのに、カミシモ振るのだ。顔の向きで登場人物を分ける落語とは違うけど、登場人物になり切り、また演者に戻る。カミシモというのがぴったり。
表情も豊か。リアルな酔っ払い。
客に向かって日常のネタを語るいわゆる「漫談」とは少し違う。演者自信について語っていないからだ。
演者は、ただグダグダなおっさんたちに対するツッコミ役としてだけそこに存在する。
ツッコミといっても、おっさんたちに対してではない。全部独白なのだ。
そして、言葉のリズムの魔術。
- 土曜日の夜、男がひとりで飲んでいた
- 土曜日の夜、女がひとりで飲んでいた
- 土曜日の夜、男と女が飲んでいた
- 背中丸めて見るからにダメなおっさん飲んどった
- ガード下の安酒場、ずいぶん酔うたおっさんが
- 駅前にある立ち飲み屋、ぐでんぐでんの爺さんオレに
これらのフレーズが、ギャグの切れ目のジングルともなる。「ぐつぐつ」みたいだ。
客の笑いは、時間差でじわじわとやってくる。だが、大丈夫だ、ちゃんと次のネタに間に合う。
また聴きにいきたいものである。