町田市忠生・ふれあい寄席(古今亭志ん吉「天狗裁き」)

ふう丈 / 真田小僧(通し)
志ん吉 / 天狗裁き

19日の土曜日は、忠生市民センターで落語会。どこだよそれ。
古今亭志ん吉、三遊亭ふう丈という、落語協会の二ツ目さんが出る。
二人とも好きな噺家だが、だからといって町田駅からバスで20分の地まで追いかけていきたくなるほど熱心なファンでもない。
でも、この500円の落語会にかこつけて、逆に町田界隈に仕事をこしらえたのです。
仮に松戸とか、浦和とかにいい落語会があれば、そちら方面に仕事を作っていた。
仕事がないと、交通費掛かるから、入場料500円でも来れない。
ちなみに1週間前には、この忠生の比較的近所、森野でも同じタイトルの落語会があり、そちらは歌太郎、小はぜだった。実はそちらも検討したのであった。

賑わう町田駅前で仕事を済ませバスに乗る。地方の県庁所在地よりもずっと賑わっている。
バスが当たり前のように遅れ、開演に間に合わない。と思ったら1時間早かった。
相変わらず粗忽丸出しなわたし。まあ、おかげでゆっくりできました。
図書館の併設された立派なホール。公民館みたいなショボいところかと思ってたが。
折り畳み椅子だが、座り心地のいい最高級パイプ椅子。

受付で名前を言わされる(予約もないのに)のだけ気に食わないが、まあ、役所のやる会だし。
シルバー層がたくさん集っていた。池袋演芸場より多い人数。日頃から落語を聴いている層ではなさそうだ。
尽きるところ、都内であっても中身は地方の落語会である。別に私が田舎を馬鹿にしているわけではなくて、噺家さんにとってはそういう舞台なのだということ。
舞台に合わせてネタも選ばないとならない。
東京かわら版では1時間半になっていたが、30分×2席だった。遠路はるばるのわりにはちょっと短いなあ。遠路はるばるは私の勝手だけど。
とはいえ落語会の内容自体はなかなかオツなものでした。

三遊亭ふう丈「真田小僧」

ふう丈さんについては新作が聴きたかったが、地方では古典なのかな。勇気の必要な新作しか持ってないのかしら?
マクラの反応で、新作の通用する客ではないと見たか。
とはいえ、初めて聴いた古典、真田小僧はなかなかのもの。

金坊がなんだか、マクラで出した落語界のビリケン、ふう丈さんのキャラをスライドさせてる。こういう生意気小僧が向いてるみたい。
真田小僧はしょっちゅう聴く噺だが、そんなにいいのに出会うことはない。前座ならまだしも、なんでみんなやるのかなと思ったりしている。
そうした中で、かわいらしさとサスペンスに満ちたふう丈さんの金坊、結構好きだなあ。
持ち時間が長いので通しで。「真田小僧」のタイトルの意味がわかる。
ふう丈さんの実力の一端がよくわかったが、といって今後この人の古典を聴く機会はそうそうない気がする。

ふう丈さんの真田小僧は、私に言わせれば相当にいいデキだった。
だが、客を掴んでいたかというと今一つの感がある。そもそも、掴めていたら新作やっていたのかもしれないが。
原因はいくつか思い当たる。
開口一番「これだけの人数の割にはまばらな拍手ありがとうございます」。
それから、小噺を言うたびに、「まあ、あまりお気に召しませんでしたか」。
こんなのは特に珍しくはない。でも、落語に慣れていない客からすると、なんだか演者に拒絶されたように感じるのではないかな。
客への接し方も難しいものだ。

古今亭志ん吉「天狗裁き」

続いての古今亭志ん吉さんはかなりいいデキというにとどまらず、普段さほど落語を聴いていると思えない人たちのハートも鷲掴み。大ウケであった。
志ん吉さん、登場と同時に客を引き付ける。お、凄い貫禄。
二ツ目さんの真の実力は、寄席に通っていても意外とわからない。そもそも出番が少ない。
だからこうした会にわざわざ足を運ぶことには意味があると思う。二ツ目専門の神田連雀亭に出ていない人ならなおさらだ。
志ん吉さん、笑点しか視ていないかもしれない地方の客に、「ああ落語って面白い」と思わせて帰すことができたのではないか。
この日の客たちには、志ん吉さんは名人として映ったに違いない。
新宿に一本で出られる町田の人を地方呼ばわりは失礼かもしれないが、都区内だって寄席のない地域だと、客の反応は似たようなものである。

年始のお年玉のマクラ。前座修業を終え、二ツ目になって最初に、前座やお囃子さんにお年玉を渡したときは嬉しかったと。
2年目もまだ嬉しかったが、その後ハタと気づく。あ、この先一生渡すだけなんだ。
お年玉は70セットくらい用意する。どういうわけだか、普段会わない芸術協会の前座にもこの時季、なぜか街で出くわすので渡さなければならない。俺の移動ルートを知ってるんじゃないのかと。
まあ、それは決して文句じゃない。縁起物なので。
そして志ん吉さん、メモリアルホールの落語会によく呼ばれると。確かに東京かわら版を開いても、そういう会は非常に多い。
メモリアルホールの落語会、だいたい休館日の友引にやるものだと思うのだけど、中にはそうでない会もあるらしい。つまり2部構成になっており、1部が落語会である。
そして、1部の主役の噺家の後ろ、屏風越しに、すでに2部の主役が控えているのだという。
もうひとつ、人形供養が第2部に設定されていることもあった。志ん吉さんの後ろには、供養を待つ人形がずらり。
客席には、供養のために人形を持参して抱いているお客さん。
このマクラで客の掴みばっちり。
初夢の、「一富士二鷹三なすび」から、その続き、「四扇五たばこ六座頭」に話をつなげる。
夢というのはなんだか思い出せないものでと言って、天狗裁きに入る。
年中できるけど正月に向いた演目だ。

天狗裁きもよく掛かる人気の演目だけど、志ん吉さんのものを聴き、改めて感じたことがある。
この噺は繰り返しのギャグがエスカレートしていくのが面白いわけだ。それはまあ、誰でもわかること。
繰り返しの際に、相手がどんどん変わる。すなわち「おかみさん」→「長屋の住人」→「大家」→「お奉行さま」→「天狗」である。
だが相手は変わるものの、冒頭のかみさんを除いてどの登場人物もきちんと、「喧嘩」→「仲裁」→「称賛」→「要求」→「立腹」→「攻撃」という手順を踏む。
この噺の骨格が、非常によくわかる、非常に丁寧な志ん吉さんの天狗裁き。
なるほど、基本の構造をしっかり繰り返しているからこそ面白いのだ。
よくある演出で、お奉行さまが夢の内容を喋らない熊さんを、「幕府転覆を企む奴である」と理由を付けて縛らせるというのがある。
なにかがおかしいなと以前から思っていたのだが、今回志ん吉さんのものを聴いて違和感の理由がわかった。こういう入れ事をすると、シンプルな繰り返しの構造が崩れてしまうのである。
噺の構造上、思慮深いはずのお奉行さまであっても、大家と同様、単純な怒りに任せてひどいことをすべきなのだ。
志ん吉さんはムダなセリフは入れない。
そして、相手のひどさが熊さんの想像を超えた内容とスピードを常に持っているがゆえに、次々と苦難に遭う羽目になるのである。
最初からひどいことをされるとわかっていれば、さすがにどこかで嘘をついてでも夢の話をしようと思うのではないか。でも、そんな暇はないのだ。
最後の天狗だけは、いったん明確に「要求」(つまり、夢の話を聴かせろ)を否定する。天狗は人間ではないと。特に志ん吉さんの天狗は、きっぱりと言い切る。
ここで客に、一瞬意外感が湧くのである。というか、客に意外感が湧いたのを、私は客席から眺めていたのである。
繰り返しの心地よさを楽しんできた中で、ほんの一瞬客は落語に裏切られたように思う。だが、天狗が「喋りたいなら聴いてやってもいいぞ」と続けることで、繰り返しの心地よさが再接続されるので、これが大爆笑を生むのだ。
なるほどなあ、古典落語ってのは実によくできている。
だが、よくできているその構造を肚に収めている人でないと、噺自体のデキのよさが活かせないということ。
志ん吉さんのような演者なら、「はじめ女房が聴きたがり、隣家の男が聴きたがり」とそれまでのあらすじをおさらいするだけで、客が湧くのである。

もう1席、15分でいいから聴きたいなと思わないでもなかったが、楽しく会場を後にしました。

作成者: でっち定吉

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