M-1騒動は随分と長引いたものだ。もうさすがに皆さん飽きましたかね。
芸人が審査に不満を覚えるところまではまあいいとして、意味なく女性差別に走り、人口の半分を敵に回すのは愚かである。
「権力」というものと、権力を行使することの本質がよく見えた事例でもあった。権力を持たない人間が、勝手に想像するような性質のもんじゃないのですな。
愚かな発言をした芸人について、救いの手を差し伸べないということが、すなわち権力行使となる。別に救ってやる必要なんかないのであって。
さて、M-1からヒントを得て、今回のテーマは「自虐」。
上沼恵美子がM-1の審査で、ギャロップとミキを比べて語っていたものである。
日ごろ私も、落語のマクラにおける自虐について、同じことをつらつら考えていたので思わずヒザを打った。
自虐なんて、軽々しく手を出すものじゃないと思う。着物を着て正座しておこなう芸では、ぴろき先生のような自虐芸がそもそもしづらい。
なのに、ウケの欲しい噺家が、実に軽々しくこの領域に挑む。
漫才よりも、落語のほうが、自虐はずっと危険だと思う。相方がいないから、バランスが崩れやすい。
そしてそもそも落語の客は、演者を見下しはしない。どちらかというと、最初からある程度の敬意を払って聴くもの。
まあ、「若えの、聴いてやっから一席やってみな。寄席のヌシの俺が論評してやらあ」なんて寄席芸人伝に出てきそうな人も中にはいるだろうが、少数派。
頼みもしないのに、客が敬意を払ってくれる関係が最初からある中で、演者が自らその構図を崩すのは、極めて危険だと思う。
なお、自虐とは何を指すか。失敗談は別に自虐ではない。客が噺家に抱く敬意自体はなんら損なわないからだ。
それに、演者自身が楽しんで語っているネタが、自虐になることはない。
自分がいかにダメな人間か、モテないか等を語って、客に優越感を与えて笑ってもらおうというのが、自虐の核心。
先日も書いたのだが、落語というものにはもともと、あらゆる人間(や動物)を同じ対象に入れて笑ってしまう性質がある。
ダメな奴でも、肉体的なハンディキャップを持った人でも、すべて同じく。
そうした世界の中では、「こんなバカげた話がありまして」と語るネタの対象が、噺家本人であったとしてもただちに自虐とは言わない。
つまらない自虐ネタを掛ける人には、そうした優しい世界を描くのとは異なり、「こんなに私がへりくだっているんですからお客さんも笑ってくださいね」という客を舐めた気持ちがある。
安易な自虐に走る噺家の心象風景を想像してみる。
自分を貶めることで、なにもしないで高い位置に残った客から、低いほうに笑いが滑り降りてくるのを待っているのだろう。
でも、笑いが滑り降りてくるとは限らない。落ちてくるのは真の軽蔑かもしれない。噺家が軽蔑してもらいたがっている内容についてではなく、そんな安い芸をすることへの軽蔑。
当たり前だ。私なら、激しい怒りが湧きおこる。
さらにセンスの悪い人になると、「スベリ受け」という禁断の領域に走る。
「私はねえ、プロの噺家なのにこんな小噺しか作れないんですよお。小噺は面白くないかもしれないけど、こんなつまらない話を堂々と語る僕の勇気を褒めてやってください」ということだもの。なんで褒めなきゃいけないんだ。
いやらしい自虐かどうかの判断はわりと簡単。
自分の話ではなく、先輩や後輩の噺家、色物さんの話をしている状況と比べてみればいい。
他人の話と自分の話とに差がなければ、それは気持ちのいい自虐ネタなのだと思う。