一席の落語は、身の回りの雑談マクラから始まって、演目に付随するマクラ、それから本編へと進んでいく。
演目に付随するマクラの中には、本当に必要なのかなと思うものもある。
たとえば「仁王」。泥棒噺の前に振られる「くせもの」「におうか」というアレである。
面白くもなんともないこのマクラ、とうに寿命が尽きているのではないか。
落語、特に古典落語には形式上の約束ごとがあるのはわかるけども、あまりにもつまらないマクラは自分で作って取り換えて欲しいものである。
落語に付随しない、どんな噺にでも共通して使えるマクラもある。地方の学校寄席に行った際の校長先生とか。
これも、さしたる工夫もなく振られるが、ちっとも面白くないし、もうやめて欲しいなと思っている。
山田与太郎なんて校長先生は、絶対にいません。
さて以上は前置き。
噺家さんが何の気なしに口に出す言葉の中にも、いらないものがあるよという話が今日のテーマ。いらないだけならまだしも、自らの首を絞めることすら。
特に出番の浅い人が、携帯を切って欲しいなどの諸注意の最後に付け足すことば。前座より、二ツ目や中途半端な真打がやりがち。
「どうぞ笑ってください。面白くなくても笑ってください」
このあと、笑うと健康にいいんですなどと続くこともある。面白いから笑うのではなくて、笑っていると脳が錯覚して面白くなるという、一応の医学的根拠を持つ話。
しかしねえ。これ自体聞き飽きているので、ギャグとしては効果が薄い。残った要素は、客に対する笑いの強要だけである。
ことばを武器に勝負する芸人なのだから、ことばのもたらす効果にはもう少し鋭敏であって欲しい。
「ぼおーっと楽しんでください」ならいいのだ。「笑え」は、客の主体性を伴う動作を義務化している。
まあ、落語に慣れていない客の前でやるのはいいさ。
だが、常連だらけの神田連雀亭でこれをやってしまうのは、あまりにも無神経だと思う。
今月行った連雀亭ワンコイン寄席。三人の演者全員がこれをやったのである。二番手の人は前説で。
笑いを強要したその席は、実に三人揃って討ち死に。
連雀亭ワンコイン寄席は、ひとり外れのことは結構多い。三人まとめてというのは初めてだ。
この日の三人、何度か聴いていて全員に好意を持っていた。このブログでも褒めている。
そもそも、顔付けを確認してから出かけているのである。信頼したその人たちに、まとめて裏切られたのは結構衝撃である。
討ち死にの原因はいろいろある。
トップバッターの人は、それほど悪くはなかった。自分の一門について触れたマクラも、ブログで紹介したくなる内容だったし。
この人はもらい事故。まあ、あとを吹っ飛ばすほど楽しかったわけでもないのは確かだが。
前説を務めた二番手が、客と噛み合わないままのダダすべりの高座だったのだ。
滑ったというのとはちょっと違うかもしれない。客の感性に滑稽噺のギアが掛からないままだったのである。
強い心臓があれば、こんな日もあると思って堂々と乗り切れたろう。そうすると客も助かる。だが、噛み合わない自分の高座にうろたえている風であった。
トリの人は、こうした状況には強そうに思っていた。即物的な笑いを求めなくても問題ない高座を務めるタイプの人である。
実際、笑いを目的にしない噺を掛けたのだが、客席の反応は鈍いままだし、本人もうろたえ気味。意外と心臓、強くないのだな。
この悲惨な席に、「笑ってください」は大きくマイナスの要因として働いたと思う。
連雀亭の客にはまったくムダな話である。それがみっつも続いたことで、客席にしらけムードが徐々に蓄積したのではないだろうか!
トリの人、笑ってくれって言っておいて人情噺に逃げたのはなにさ。
お願いしますよ、若手の皆さん。気が利いた人はそんなこと言ってないって。