年末、大井町に移った劇団四季、キャッツに行ってきた。
横浜開催で観て以来、5年振りになる。
私は生涯4度目のキャッツだ。横浜の前は五反田で観た。
毎回微妙に変わりはするのだが、今回のキャッツの演出はずいぶんと変わっていて驚き感銘を受けた。ミュージカルも日々進化を止めない。
ミュージカルは大好きで、一度観ると次々観たくなるのだけど、懐がさみしいもので、つい落語のほうに行ってしまう。
今回は安くて子供料金もあるA席にしたのだが、存分に楽しめました。
浅利慶太の退団・逝去後も、四季は元気である。
劇団四季出身という変わり種の噺家に、三遊亭究斗師がいる。
寄席では究斗師、客席にミュージカル好きな人がいるかどうか必ずアンケートを取るが、手が挙がることは決して多くない。落語とミュージカルとの接点は、驚くほど乏しいようだ。
それにしても私、普段落語のことばかり考えているもので、昔から観ているキャッツ観覧中にも、頭を落語や寄席のことがついよぎる。
キャッツはいろいろ考えることの多い芝居である。
客席と舞台が渾然一体となっているのがひとつ。どんな芝居でも、舞台と客席とを仕切る「第四の壁」が溶けて一体になる場面というのはあるものだが、キャッツの場合は初めから融合している。
仲入り、とは言わないが休憩後のスタートもシームレスで、登場人物(猫)のひとりオールドデュトロノミーが舞台にゆっくり歩いてくるのが合図である。客にお知らせはなく、芝居が始まる。
いっぽう落語の場合、第四の壁はちゃんと演者と客の間に存在しているのだが、アホ過ぎて、壁があることに気づいていない客がいる。
あるいはTVのように、強固な壁が存在すると思っている人もいる。
前者は過剰な拍手や声掛けをして高座を破壊し、後者はガシャガシャ音を立てたりお喋りを続けたりして高座をグダグダにする。
どちらもほぼ年寄りの所業である。若い頃の文化生活がよほど貧しいものであったのであろうな。
高度成長時代の仇花とでもいうべきか。ミュージカルでも観ておいたらよかったのだ。
ミュージカルの客は過剰に上品ということはないが、少なくとも無作法はない。
いやあるよ、というミュージカルファンもいるでしょう。そういう人は一度浅草演芸ホールを訪れて、東武スカイツリーラインで埼玉からやってくる、読売新聞のタダ客を観察してから結論を出すといいと思います。
舞台と客席のつながった空間においては、また独特の作法が生まれてくるようである。
キャッツはリピーターの多い芝居である。そのためもあり、拍手のタイミングが絶妙だ。
そして手を叩く客に、私はわかってるのよという自己顕示欲がかけらもない。
客の反応が毎回異なるので、芝居は生き物。
キャッツにおける客の拍手のタイミングは、それは見事。しかも自己顕示欲に基づくものではない。
いっぽう、歌舞伎における声掛けには、客の過剰な自己顕示欲を感じる。やるな、なんて伝統に異を唱えるつもりは毛頭ないけど。
「いや、他の奴は知らないが俺についてはそんなことはない。適切なところで声を掛けることで、舞台が引き締まるからこれは半ば義務としてやっているんだ」という人もいるかもしれない。でも、そもそも自己顕示欲の強くない人は声なんか掛けないと思う。
落語でも先日、鈴本でヒザのロケット団に声掛けしていた人たちが、舞台の最中手を叩きっぱなしだったのを思い出す。ヒザだししかも代演だし。無粋だねえ。
いっぽうミュージカルでは声は掛けないので、客からの反応はすべて拍手で表す。
ミュージカルにも、手を叩くべきか判断の難しいシーンがいくつかある。その際、誰かが手を叩くと、客の思いが一体となって伝播する。
きっかけの拍手は、客席が暗いせいもあるが、見事に気配を消しておこなわれる。
ファンひとりひとりが、拍手を演出として心得ているのだ。
これ、寄席で色物さんの芸に拍手を入れるタイミングとまったくおんなじ。私も寄席で、適切なところで手を入れて場内が盛り上がると嬉しいのです。
そのためには「俺はわかってるぜ」という自己顕示欲はむしろないほうがいい。
落語における過剰な拍手については、当ブログでもたびたび批判している。
- 古典落語のありきたりのクスグリに手を叩く
- ギャグのひとつひとつにいちいち手を叩く
- 笑えばいいのに手を叩く
ここまで間違ってるとなると、なにか「作法」そのものを間違って認識しているとしか思えない。入れる必要のない拍手を無駄に入れて、高座を破壊するなんて野暮の極み。
まあ、落語でもミュージカルでも、「適切なところで拍手を入れて舞台を盛り上げるのに貢献するアタシ」というのもひとつの自己顕示欲の発露のあり方かもしれない。ほどほどに楽しみましょう。
他にも、キャッツを聴きながら落語との共通点をいろいろ思い起こした。
同じ演目を繰り返し聴く中で、そこに独自の感情が生まれてくるのである。
ああ、あの盛り上がりが来るぞ来るぞ、キターという感覚。演出がまた、知っているものと微妙に違う点がよりいい。
これは、クラシック音楽を聴く感覚によく似ているが、落語にも似ているのである。古典落語が典型的だが、新作落語でもこうしたことはある。
先日聴いた橘家圓太郎師の「大工調べ」を思い起こす。ああ、怒りをこらえる棟梁、啖呵が来るぞ来るぞという。
そして、サゲ。当ブログではちょくちょく落語のサゲについて考えている。
落語のサゲは、落語に対する造詣の深くない人が、噺を支配していると勝手に考えるほど重要なものではない。サゲに落語の肝なんてない。
だが、サゲなんてどうでもいいんだと言い切るほどどうでもよくはなくて、立派に機能がある。
それはなにかというと、客にストーンと噺を飲み込ませるということ。
知っているサゲを聴くと、それまで夢中になっていた噺の中で、見事に気持ちが着地する。
ああ、こういう感覚を得るために、いろいろ聴いたり観たりするんだよなあ。
また、ミュージカルにも行きたいものです。アラジンまだ観てないので。